2001年『院長のひとりごと』より
2月

 20世紀が終わり21世紀が始まった。
 区切りの良い成人式の式典のように、私は思っている。日本人の公式暦として『平成』を頂いている。その為日常情報生活に置いてどんなに無蔵なエネルギーを費やしていることだろうか。マスメディアも「今世紀最後」とか「ミレニアム」とか、花火を揚げたり、馬鹿騒ぎをせずに「公式書類の西暦統一」決起大会でもしてくれればどんなに助かり、経済効旺もあると思えるのだが。日本人は大晦日、新年には太古の昔から厳粛かつ静寂な行事があるのではないか。毛唐(差腹語かな?)のまねごとをしてグローバル化なぞ、ちゃんちゃらおかしい。★世紀が時代の変革期とすれば、本当の意味での人類の新しい変革時代はすでに始まっている。共産主義国家の崩壊、インターネットの出現、利用、高速大裏航空機のグローバル・ネットワーク化、遺伝子操作技術の実用化等々以前の人類の価値観、生存観への変化、それに伴う未来への指向性の変革はとっくの昔から始まっている。この国のリーダーは「21世紀はI・T革命」と政治レベルではしゃいでいるのは、時代認識を疑う。私たち日本人がこの国のリーダーに求めているのは次の世代にどのような国家像の青滋真を掲げて、未来に夢と希望を提示してくれることであろう。毎年、毎年当蔓の経済的景気に巨額の借金をして次世代に負担を先送りすることを期待しているのではない。★数十年前よりコンピューターを使わずとも優秀なる日本の官僚の提出する白書を見れば21世紀の人口構成の顕著な変化に伴う国家的構造の変化は想像できたであろう。世界では二大巨大国家均衡の破綻に伴い、当然のように民族、宗教問題が吹き出している。その中で極東の小さな島国『日本』の目指す方向は1つ。日本人としての誇りと固有の文化、言語、自然環境を大切にすることであろう。しかし、日本の国を操る政治家の先生方が私たちに見えるのは、猿山のボス争いにしか見えないのは悲しいことである。★21世紀の世界の国々は益々国家の個性、自主性、歴史観、経済性優唖が著名となるでしょう。その為にも日本人は改めて民族の誇りを持てるような歴史認識を次世代に引き継ぐべきです。我々民族の知的優秀性に自信を持ち、客観的世界観を教育すべきです。★この美しい風土を守るため約50年前太平洋の藻屑と消えた優秀な日本人の若者の意志を継ぐためにも、世紀は我々子孫の時代になってほしいと思います。

2月
 南向きの縁側で雲一つない節分前。青空の広がる冬の縁側、喉をゴロゴロ鳴らす猫と昼寝をするのがまこと、絵になり私の好きな季節でもある。本を読むでもなし、寝るでもなし静寂な時間が過ぎて行く。何時の間にか鼠色の雲が太陽の光をさえぎり、ぶるぶると寒さに身震いする。ガラス障子の外を時々突風が葉っぱのついてない木々の枝を震わせる。空を見上げると太陽に懸かった雲の塊が右から左に動き、さあーとあたたかい日の光が戻り眠りの世界に落ちて行く。★中学、高校時代の自転車帳学はこの季節辛かった良い思い出です。島の冬は温かいとはいえ、朝日の指す前の蕩凹の道は霜で覆われ、時々氷も張っていました。島の北端の自宅から島の南部中心までの土の細い道は約20余キロはあったでしょうか。島の中央部に急で細い道がみかん畑の中をくねくねと続いていました。この峠を自転車を押して上がるとどんな寒い氷雨の降るような天候でも汗で下着を濡らして登校していました。★この島は峠まで東西に深い入り江となっており、南北を急な山波に囲まれています。多分何万年かの昔、マンモスが住んでいたころ高い山の連なりを思わせる風景を想像させます。村上水軍の本拠地であった理由想像がつきます。今は干拓地と細く入り組んだ水路になっています。私はその入り江に沿って東から西の峠に向けての道を帳学していました。この季節になると鏡のような入り江いっぱいに温泉のように水蒸気が立ち上り、南の山影は朝靄で墨絵のような景色を見せていました。★そんな帳学時にも楽しみがありました。島南部の町に自転車をガタピシ、弁当箱をコトンコトンと音を立てながら帳勤、帳学にこの道をみんな帳っていました。入り江を挟んで並行する道もそんな人たちが朝靄の中から沸きあがるように、枯れたススキの間を縫って西の方向に急ぐシルエットがありました。学生の中に女学生達の姿もちらほら混じっていました。其の中に一際姿勢がよくスマートな一人に目が行くようになりました。遭えるような時間に自宅から其の入り江に着くことが楽しみになりました。入り江の向こうの細い道はこちらから行く道とひとつの道になる前に小さな集落の後ろを帳り、再びみえて来ます。其の中に目のパッチリし、わたしにとって胸をときめかす女の子がいました。★春が近づき入り江の靄も消えてきました。対岸を帳る人々の容姿も見えるようになりました。其のとき初めて自転車姿の良い女学生と私が胸をときめかしていた人とは腹の人と知りました。瞳の綺麗な人は其の春に卒業をしてしまいました。一言も言葉を交わすことができないまま。★其の女(ひと)とは約5年後友達になりました。其のとき始めて知りました。去り行く時間には素直に身を任せ、生きている時間には心も、肉体もすべてを賭けよう。例え、後悔しようとも。 
3月
3月の声を聞くと急に春の温かさが感じられます。庭の椿が色とりどりに花を付け始めました。目白がチョロチョロと枝から枝へ飛び回り揺れる小枝の椿の花の蜜を吸っています。目の前の窓からラッパ咲き、桃色一重の侘び助、太郎冠者の楚々とした花が満開です。今年、桃色の猪口咲きワビスケツバキ、『吉備』とゆう岡山の藪椿から生じたまだ子供のような苗を買いました。私の背丈になるのは生まれてくる孫が20歳の頃になるでしょう。椿の花は可憐なもの、艶やかな美しいもの、白でも色んな表情を持ったものと尽きることのない世界を私の前に見せてくれます。3000余種もの美しさを持っている椿皆には逢えないでしょうが、出来るだけの花達を愛でたいとファイトを燃やしています。『鶴形』『後楽』等岡山県にちなんだもの、驚いたことに私のふるさと『因島』とゆうのがあり驚きました。若い時には椿の質素な美しさに心ときめくこともなく、過ごしました。ある年突然その美しさに打たれました。日本人の自然、花等祖先が残してくれた美意識に目覚めたのでしょうか。私たちも次の日本を支える世代に、日本人だから持てる心の琴線を伝えてやりたいと思います。★21世紀を迎え日本の将来への明るい話題が聞えて来ません。何千年も続いている日本の国がなくなることはありません。歴史を紐解いても日本人は強(したた)かに生きてきました。★現代は決して荒海のように風が、波が騒ぐ時代ではありません。瀬戸内海の春の海の様に気持ちよく落ち着いた景色が広がっています。しかし、私達は何故か落ち着かない、胸騒ぎがするような明日への不安を持ち生活をしているのでしょう。★街へ出かけると人の数は毎年目に見えて少なくなり、人の群は白髪、頭髪の少なくなった人が目に付きます。人のざわめきに温もりが少しずつ減っているように思えます。私は思うのです。何か変だぞ。社会が何か弱々しく成っているぞと。50年余りこの島々の中だけで温々と繁栄した付けが回ってきたようです。生物界でも余りにも純粋な種族は時間と共に淘汰されて来ました。逞しい国も栄華盛衰があることも事実です。しかし、長い歴史に残る古代ローマ、唐の都、長安、近代のアメリカ合衆国は多様な文化をもつ人々の集まりです。日本の国も小さな島の中だけで繁栄を考えず、数年、数百年かの社会混乱はあろうとも多様な文化の国に変貌する必要があるでしょう。★古墳時代、東アジアの多様な人々が渡来し何百年か後現代日本に帳じる文化、教養、芸術を作り上げたように。
5月
貴方にとって春の燃えるような木々の芽吹きは何を与えてくれますか?冬の間眠っていた生命の再生に私たちの体の中で普段築かれない生命の不思議さに、一個の生命体のときめきに、圧倒されませんか?緑色系のあふれるような色の多さに思わず立ち止まってこの国の山、川、町並みを改めて見つめて立ち止まることはありませんか?昨春に比べ一回りも二回りも逞しくなった幹に目を見張り、自分にとっての一年間を振り返ることはありませんか?そして自分もこの大きな宇宙の本当に小さな塵芥に過ぎなかったことに気が付き、思わず海を、星の輝く大宇宙を、自分に対峙したことはありませんでしたか?★緑の山肌が醜く削られ黒く山稜を縫って行く立派な道に疑問を感じたことはありませんか?春には名もない草花に覆われ、夏には白い道も見えないほど草が続く道は通りにくく不便でした。しかし、車で何処までも行けることが豊かな社会と感じられますか?あの頃草花を摘みながら草いきれに汗を流し、ススキの中に大きな赤い太陽が消え、風に身を縮めながら貴方にとって春の燃えるような木々の芽吹きは何を与えてくれますか?冬の間眠っていた生命の再生に私たちの体の中で普段築かれない生命の不思議さに、一個の生命体のときめきに、圧倒されませんか?緑色系のあふれるような色の多さに思わず立ち止まってこの国の山、川、町並みを改めて見つめて立ち止まることはありませんか?昨春に比べ一回りも二回りも逞しくなった幹に目を見張り、自分にとっての一年間を振り返ることはありませんか?そして自分もこの大きな宇宙の本当に小さな塵芥に過ぎなかったことに気が付き、思わず海を、星の輝く大宇宙を、自分に対峙したことはありませんでしたか?★緑の山肌が醜く削られ黒く山稜を縫って行く立派な道に疑問を感じたことはありませんか?春には名もない草花に覆われ、夏には白い道も見えないほど草が続く道は通りにくく不便でした。しかし、車で何処までも行けることが豊かな社会と感じられますか?あの頃草花を摘みながら草いきれに汗を流し、ススキの中に大きな赤い太陽が消え、風に身を縮めながら急いだ足場の悪かった道は、今も脳裏に豊かに遺って思い出されます。春の野辺には薄紫色の蓮華の花が絨毯のように広がり、畦のちょろちょろと流れる小川にはメダカが無数の群をなし、ドジョウや鮒が小さい水辺の昆虫が私たちと同じ目線で生きていました。日本の風土で我々の祖先は長い間社会を営み文化を創ってきました。今こそもう一度、日本に住んで良かったと思える国造りを始めたいものです。★日本に新しい指導者が誕生しました。貴方は自分の世代にこの国の社会通念、理念、倫理観、自然感等が今日の政治方法で代わると思いますか?この約  年間、他国の侵略を考えず、国の中の安全、世界の経済大国に成った国が歴史の中にあったでしょうか?同じ価値観の純粋集団は自滅するか、もっと大きな集団に飲み込まれるのが生物の成り立ちのようです。周りの環境の変化を凌駕し自分たちの世界に誇りを持てるためには、時間が必要です。どれくらい?私は思います。三世代は必要です。それも価値観の異なる人々が自由にこの国に住み新しい日本人が生まれるようになって。社会を変えるにはリスクをみんなで負わなければいけません。その為にも指導者は明確な目標設定と説明をして欲しいものです。色々な民族の保つ能力、価値観、身体が日本人と融合したとき再び豊かな、誇りのある国となるでしょう。
9月

夜の帳が音もなく降りると、窓の外よりリーン、リーンと虫の値が心地よく部屋の中に恋人が忍んでくるように押し入って来ます。この夏は私たちが今まで経験したことがないような茹だる暑さでした。寝苦しい熱帯夜で多くの人は陸に上がった魚のようにアップ、アップしていました。その時は、この異常気象が永遠に続くのではないか言う恐怖を感じたのはつい2,3週間前の話です。しかし、昔から続く四季の移り変わりは、決して秋の日を忘れていませんでした。私はあの夜、突然集く虫の音を聞いて秋を身近に感じました。お盆最後の蒸し暑い夜、五山送り火を病室から見ることができました。暗闇に“大、妙、法大”と篝火が夜を焦がすのを見て、私は今、この国の歴史の中で生きていると感じたのは、古都の変わらない風景の中にいることと関係あるのでしょう。台風11号が自転車に乗ってゆっくりやってきました。6月から一度も本格的な雨が降らないこの地に一日中大地を湿らせて、北国へ去って行きました。翌日より今までになく空気が涼しく感じられ思いなしか町の中の大きな街路樹も燃えるような緑から、少々くたびれた黄ばんだ緑に変わったように思えます。神様は覚えていたのです。秋の清々しい日々を 。主役の座を降りた蝉たちは急に大人しくなりました。私達は連日連夜あんなに騒いだ猛暑の出来事をケロッと忘れ『朝晩涼しくなりましたね』と挨拶しています。それでいいのです。私達は過ぎ去った事は忘れ、今のことに対応して日々を過ごしているから生きていられるのです。★夏の終わりの事を思うと、少々柄になくセンチメンタルな気持ちになったことを思い出します。もう少しすると2学期の始まりです。まだやり残している宿題を見ながら担任の先生の怖い顔が浮かんでくるからではありません。一日中遊んだ海辺が今は誰もいないのを見てあの日は夢の中の出来事なのかと思うときです。夕方には赤とんぼが群をなし飛び回り、夕涼みに賑わった海辺の番台も今は人影もありません。しかし、楽しいこともありました。毎晩蚊帳を吊らなくて良くなり、押し入れ臭い掛け布団にくるまって夜を過ごせるからです。それもホンの数分ですけど。夜ともなれば澄み渡った秋の夜空に無数の星が瞬き、天空を白く本当の川が流れるように白い帯となる天の川。四季の移ろいは、子供の心に自然に対する畏敬の念と、我々を超越した自然の近寄りがたい存在を無意識に教えてくれ、今でも私の生きることへの潜在的力になっているようです。★あなたは神の存在を認めますか。私にとって神は、私を取り巻く星であり、太陽であり、山であり、木々であり、海であり、自然そのもの様です。  *大変長い間“院長のひとりごと”を休み、皆様に大変ご心配をお掛けしたことをこの紙面を借りお詫びいたします。その間に大勢の方々に励ましのお言葉を頂き心の支えとしていました。今回より再掲できるのも皆様のお陰と感謝しています。拙い文章ですが又おつき合いのほどよろしくお願いいたします。皆様とお会いできる日を楽しみにしています。

                                院長 杉本 茂

10月
西山の山端を刻々と光り輝く茜色から紫色へ、そして夜の沈殿の中へ溶け込んでゆく時になると、疎水に沿った細い遊歩道の並木の下に植えられた萩や、下草の中から無数の虫の声が転がるように聞えてくる神無月になりました。家並が黒いシルエットとなり深い蒼い闇の中に溶け込むと、幾重にも重なり合った空気の襞が微妙な動きとして肌に感じられます。ふっと生暖かい波が首筋を触ったと思うと、草いきれを含んだ冷たい空気の膜が頬を撫でて、道に沿って流れる豊かな水の流れの中に降りてゆきます。生垣の中から甘くふくよかな香りが私を包みます。金木犀の香りが鼻腔を擽り浮気女が拗ねるように暗い木立の中に消えてゆきます。何処に金木犀の木が在るのだろうかと首を巡らせ暗闇の木々を探しますが見つかりません。道に沿って続く太い街路樹は桜のようです。ポツポツと立っている街路灯の青白い明かりが、黄ばみ始めた葉っぱの隙間から漏れてきます。紅葉が始まったのだなあと感傷的になります。横合いの路地から冷たい空気が流れ、思わずシャツの襟元を合わせます。茹だる様な熱い夏が過ぎ、自然が休息の時を必要とするこの季節、秋は深い哀しみが、人の温かさを欲しがる季節でもあるようです。★先日、『ニュース ステーション』を見て寝ましょうとスイッチを入れると、ニューヨークのツインタワーが黒煙に包まれた画像が飛び込んできました。「何時の事、なんで」と見いっていると何と隣のタワーに一機の飛行機が豆腐の中に指を突き刺すように飲み込まれたと思ったら炎と黒煙が湧き上がりました。ハリウッド映画が間違えて放送されているのかと思えるようなリアルタイム画像に、声もなく呆然自失に時が流れて行きます。その後のことは皆様ご承知の通り、連日マスコミを賑わしています。★今から約五十年前、第二次世界戦争の影が覚めやらぬ時代世界の賢人が年一回集まり将来の世界、人類の行く末を議論するローマ賢人協会がありました。其の中で一番危惧していた事は二十世紀より二十一世紀にかけての人類の爆発的な人口増加であったと記憶しています。それに伴う地球環境の壊滅的破壊と食糧難に伴う飢餓、民族紛争が警告されていたように思います。手許に資料がないので申し訳ございませんが、其の頃の世界人口が約三十億人であったと思われます。私が目にしたのは約二十余年前であったと思います。二十一世紀初頭約億人。★この約五十年の間人類知的創造の進歩は目を見張るものがあり、今や人間の生物的適応力をも凌駕している様に思えます。しかし、人類の感性は文字として歴史に残る時代からほとんど変わることなく人間です。この二者の乖離は日に日に修復不可能になりつつあるようです。★緑豊かなアメリカの町々、草木一本見当たらないアフガニスタンの山岳、都市風景。豊かな人々、貧しく豊かな国の武器を持った人々。私たちはテロ行為を憎むが、この現実をどの様に処理すればよいのでしょう。★この事件は思わあことで幕末の黒船の様な影響をわが国に及ぼしています。焦土と化した日本国に理想的な平和国家を目指すべき作られた憲法は人類史上画期的なことであったろう。しかし、三流国とした将来の国造りを目指した時代と、経済大国となり世界の体制をも左右しかねない今日の日本において、世界における立場も自ら異なったものであろう。国の基幹を現す憲法は大切にしなければならないが所詮其の時代に人間が考えたこと、急速に変化する今日、明確に表現する柔軟性を持った憲法こそ必要ではないかと思えます。我々の問題として、個人個人が熟慮する事から始めることが、行きづまった今の日本に求められている事と私は思う。 
11月
黒く聳える山門の間を一筋の風が通り抜け、私の首筋に冷たくまとわりながら流れて行きます。色付き始めた落葉樹の木々の間を縫って太陽の光の帯が煌めいています。梢から解き放された朱や、黄色の子供達が澄み切った大気の中を泳ぐように濃緑色の絨毯の大地に向かって滑空して帰って行きます。一生の仕事を終え安堵したように母の寝床に休むのでしょう。小鳥の囀りが木立の中で木霊しながら何処までも澄み渡った青空の中に飛び散って行きます。冷涼な大気は静かな眠りに就こうとしている秋のひとときを優しく見守っています。人が石畳の上を歩く足音も、子供達のはしゃぎ笑う声も時の流れが遅くなったような優しい一時を醸し出して行く秋の日溜まりです。生命の息吹に燃え立つ春、生命の溢れ出す夏の日々、そして秋。今の私には秋の静かな一日の移ろいが心休まる自分の時間のように感じられます。そして、野山が眠りに就き、新しい生命の誕生に備える冬の季節。そして春。★私の家にも新しい春がやってきました。紅葉の葉っぱのような小さな手をした、壊れそうな生き物が出現しました。私にとっては孫というそうで、言葉で言い表せない変な生き物です。体を動かしたり、欠伸をしたり、泣いたりするとなんとも言えず胸の中が落ち着かないそんな感じです。顔を見ていると私のお尻に尻尾が生えたような、何か私もこの生き物にのっぴきならない関わりを持ったようなこそばゆい様な複雑な心境です。孫は私が引き継いだ“人類十数億年の      をお前に送ったよ”という安心感を呼び起こしてくれます。それにしても私の悪いところが遺伝しませんようにと息子の顔をそっと覗き込みます。それにしても息子の締まらない顔は想像を絶するものです。私もそうだったのでしょう。★杉本クリニックも開設以来今月で十五年目を迎えます。この間に約二百五十余名の透析患者さんの治療に関わらせて頂きました。転医された方、亡くなった方の思い出が走馬灯のように頭の中を過ぎります。私の医療目標である「暖かく人間味の溢れた外来透析医療」を目指して職員一同日々精進しています。私たちは反省すべきこと、努力することは虚心坦懐行動に移してゆきたいと思っています。そして皆様方が充実した日常生活が営まれますよう一緒に歩んでゆきたいと思っています。今日まで杉本クリニックが安定した外来透析医療を営んでこられたのも岡山大学、川崎医大を始め、地域基幹病院の諸先生方、スタッフの皆様方のご協力があって初めて可能となったことに院長として心中より感謝しています。今後私たちは日夜進歩している医療技術に遅れることなく又、人と人の係わり合いを大切にし、初心を忘れぬよう一年、そして一年を積み重ねてゆきたいと思っています
12月
枯れ葉が一枚そして一枚、梢にしがみつくのが疲れたようにトルコブルーの冬空を背景にゆっくりと地表の仲間の中に横たわって行きます。静寂と諦念、この世に同じく生かされた物にとっての共感が初冬の凛とした空気に感じられます。公園の日溜まりの中にあるベンチで行き交う人々を見るともなく太陽の温もりに身を委ねています。時折一陣の風が枯れ葉と戯れ、面白い造形を作り、壊しています。雲間から帯のように延びてくる太陽の光は私の肩にポカポカと心地よい温もりを与えてくれます。無意識に「ありがとう」と感謝の言葉が口元に上ってきます。『温もり』とは、何と言う心地の良い言葉でしょう。晩秋の山肌の温もり、川瀬の音の温もり、ヒンヤリとした大きな樹の温もり、人の愛の温もり。私はこの一年間、多くの人々の『温もり』の中で生き返ったようです。私は来年還暦を迎えます。六十年で生まれた歳の干支に帰るのも何かの縁と感じ入っています。来年は再生の年、自己改革の始めにしたいと思っています。何処かの国のようですね。★皆さんには院長としての不義理を誠に申し訳なく思っています。その間の事情をこの場をお借りしてお話したいと思います。★この十二ヶ月の間は、十ヶ月入院していたことになります。以前より患っていた肝炎が末期的状態になり、肝ガンが併発しこの数年間は入退院を繰り返していました。春にガンの再発を認め、主治医より余命幾ばくもないため、以前より検討していた移植をしたらどうかとの提案があり、五月京大移植外科に転院、六月に手術を受けました。それからの約二ヶ月間は親族をはじめ職員、京大の医師、看護婦の献身的な愛情を授かりました。しかし私は殆ど記憶にないか、夢の中の出来事のように朧気な思いしかないのです。その間の体力の消耗は激しく、体重が約二十キロも減り、筋力低下で座ることもおぼつかない状態でした。九月に一般病室に転室し、リハビリで徐々に歩行可能になり今日に至っています。★最近やっと本来の思考回路で今までのことを考える余裕が出来た様に思えます。私が生きることが出来るのも、出来たのもそして出来ないのも、皆、私が私だからです。私であり得たのも、沢山の人の温もりを頂いたおかげと思っています。★窓を透して錦織りなす楓が朝日に輝いています。「季節織りなす風景の美しさに解け込める心の安らぎを得られる充実した時間を人生の目標にしたい」と思う師走の一日です。