2000年『院長のひとりごと』より
2月

 風が吹く。木葉もない庭木が、ユラリ、ユラリと時折動く。庭はまだ息をしてない。澄み切った初春の青空を白い雲が流れて行く。太陽の光が遮られると大気は俄に冷たくなる。私は空を見上げる。太陽が動いているように雲間より光が射し庭に影を作る。日光の暖かさが、”ふう?”と体の緊張を和らげる。縮めていた首筋をぐるりと伸ばし、次の寒さに毛糸のマフラーを絞め直す。庭の小さな池の水も澄み渡り、底の白砂の一粒一粒が手に取るように透けて見える。夏には沢山いたメダカも少数ながら群をなし元気に泳いでいる。冬を越すことが出来るかと心配していたが、どうにか持ちそうだ。大きめのメダカが数匹シラス干しのようになり砂の上で息絶えている。黒く開けた目が透明な水を帳して青空を見つめているようだ。水の中も生命は眠っているのだろう。春はもう少し先のようだ。★寒い季節といっても瀬戸内の冬は誠に穏やかだ。季節は天空を確実に巡る。生き物のかすかな胎動が寒さの中にも幽かに伝わってくる。風に舞う枯れ葉の音に季節の移ろいをみ、辛夷のまだ堅い銀色の蕾の上に幽かな春の色を感じる。木々は寝ているが、いま少しで庭の大気は息づき動いてくるだろう。薄茶色に広がる芝の中に鮮やかな緑が浮かんでいる。根元に指を差し込み引き抜く。大地の冷気が頭の頂まで突き抜ける。青臭い生命力に、名もない雑草に敬意を感じる。★私はアルトール ベネディクト ミケランジェリと言うピアニストが好きです。好きなのでレコードは殆ど聞きません。変わった人らしくてスタジオ録音は殆どありません。演奏会の録音が最近CDになり輸入され手に入ります。録音は古くそのため音は最悪です。彼の録音を聴く時は緊張をします。その為、聴くことを躊躇します。“何で好きなの”と、質問されると困ってしまいます。”好きだから聴きたくない”と答えるしかないのです。私には彼の音の間に色頃を感じたり、心が集中しているときには”匂い”を一瞬感じ、時間を彷徨うことがあるのです。彼の音は散漫に聴いていると、大切な何かが指の隙間から亡くしてしまうようで、二度と得ることが出来ないような錯覚で私は恐いのです。その為、私は滅多に彼のレコードを聴きません。しかし、昔の録音レコードを見つけるとワクワクしながら買ってしまいます。私が変な人なのでしょう。私たちが手に入れることが可能な録音技術は日進月歩で進化しています。膨大な音の情報が素晴らしい世界を再現してくれます。私は十代からこの年までそんな音の再生に夢を見て趣味としてきました。しかし、最近私は思うのです。心の情報を忘れて技術が進化してないのかと。私は新しい再生技術の装置を手に入れると、必ず昔の古い録音レコードを聴きます。いつの間にか大河の真ん中まで流され川岸に帰ってこれない小舟にはなりたくない。そんな思いが強い今日この頃です。

3月

ガラス越しの陽の光は部屋全体に広がり、庭のいじけた様に這い蹲る黄色や紫色のパンジーも、コートを脱ぎたそうに背伸びをしている。時折霙混じりの雨がぱらつくのもこの季節である。

 ★三十余年前、明石球場での巨人キャンプに一人の男が現れた。連日新聞紙上では大きな活字『3』が踊っていた。それまで日本のプロ野球が育てた大打者川上哲治にもない、既存の選手には見当たらないダイナミックなスウィング、カモシカを思わせる、若く強靱な脚から生み出されるベースランニング、動物的な挙動さえ感じさせる三塁の守備、大リーガーを彷彿とさせるその一挙手一投足はすべて華麗であり、篝火のごとくわれわれの衆目を集めた。多くの日本人、特に同世代の若者にとって裕次郎と長島は曇り空に突然雲間からのびた太陽の光のようであった。

 ★日本の経済復興、発展は毎年めざましく、若人に夢を与えてくれていた時代であった。川上選手は引退の後監督になり厳しい管理下間もなく9連覇と言う偉業を成し遂げるのだ。大学生であった私は、毎日駅でスポーツ新聞を競って買い目を皿のようにして貪り読んだ。元来巨人ファンであった私には毎日がお正月だったり、はたまた葬式のような日々であった。長嶋、王を中心として、柴田、黒江、土井、高田等の選手が脇をかため、森捕手という知恵袋を擁した野球集団は、永遠に勝ち続ける様に思えた。野球がチームプレーに基づいたスポーツであるとすれば、この偉大な記録は、川上という名指揮官の類希な手腕によること大であろう。それは、映画の世界で言う監督とスター俳優の関係に似ている。巨人軍は長嶋選手がいたから強かったのではなく、監督の采配、管理、指導が巧であったから強力であったのだろう。

 ★この栄光の時代も、時間とともに忍び寄る選手の肉体的衰えと共に終了し、長嶋選手のあの有名な引退セレモニーで幕を閉じる。「巨人軍は永遠に不滅です。」この世の中の生あるものは必ず死ありという事を一番よく知っている類希なる才能のスターが皮肉にも言った一言。この時から彼の悲喜劇が始まるように思える。

 今年の宮崎巨人軍キャンプには三十数万人の人々が集まったそうである。その中で、男が一人、一枚の上着を脱ぐか脱があかと、衆目を集めていた。テレビの前では、場末の○○○○○劇場のかぶりつきでぎらぎらした目つきで踊り子をみるおじさんさながら、涎をこぼしている人々がたくさんいた。その期待にしたたかに媚で答える踊り子も、満員の客も、共帳した空間で幸せに満ち溢れていた。何時の時からボタンの掛け違いが生じたのだろう。

 一時代を作った男のユニフォームをもう一度資料館から引っぱり出し、失った時間を取り戻そうとする感覚は、私には理解できない。この国では、時を同じくして、景気が悪いとかで、夢よもう一度と、公共投資に大裏の税金をつぎ込んでいる。これもまた長嶋現象で済むことであろうか。 

4月

「君はだれ。」「君はどこから来たの。」そんな言葉を、桜色の渦の中で私はつぶやく季節になった。私は寝苦しい春の宵に夢を見た。下草が萌葱色に変わろうとしている曲がりくねった桜色のトンネルの中の小径を、私が歩いている夢を見た。桜の黒く太い幹が谷川に向かって何本も何本も力強く枝を伸ばしている。谷の下より吹きあがってくる冷え冷えとした風がゆっくりと枝を揺らす度に、桜色の世界が青い靄の中で大きな鳥が翼をたゆとうごとく時を刻んでいく。私は鼻腔を大きく膨らませ、生命の目覚めたばかりの鼓動を胸一杯に吸い込み山道沿いに進んでいく。踏み出す一歩は軽く、四肢の筋肉には力が漲り、汗が木漏れ日の中に光っている。山道の端に青々とした雑草が右に優しい曲線を描いている。その時、白く血色の良い童の足がふと消えて角を曲がっていったように思えて、桜の下を足を速め追いつこうと息を弾ませる。私は曲がり角に着いた。そこには桜の巴の文様を思わす景色が続いているだけだった。その空気の中には最早、童の姿はない。一息つき、また急ぎ足でいよいよ急になる曲折の道を急ぐ。行けども行けども私は童に追いつく事が出来ない。そんなはずはない、と心ははやっていた。いくつめかの曲がり角の桜の下に、童に変わり白髪の老人が私を認め立ち止まっていた。私もその瞳に吸い寄せられるように足を止める。「あなたはだれ。」何秒たったのだろう。古の昔から未来永劫まで二つの瞳をからめていたように時が止まる。「あなたは誰。」と問うと、ふぅっと桜の木の下から老人の姿が消えて風だけが残った。「あなたは私?」、今の私と、童、白髪の老人、三つの瞳の光が一つに重なり合いこの間に漂う。春の一日は時に埋もれた世界かまだ見あ世界への一瞬の安らぎの時間。これからどこに行くのか。私がよろりよろりと夢の世界を彷徨うような、誰も知らない不思議な一時。知っているのは童が私の体を透視して見つめる遙か宇宙の不可思議な光の瞬きか。春の宵い夢か現か。命を謳歌する夏が来て、そして秋が訪れ、命の泉を大地一杯に蓄えた冬の季節がやって来る。私は次の春の宵にもまた逢いたい。桜の木の下であの童と白髪の老人の眼に。

5月
山が燃える季節になった。山がむくむくと、緑のパッチワークの様に沸き上がっている。風が吹くと裏返った葉っぱが白く白く皐の空に吹き上がって行き、大地の鼓動が伝わってくる。約十余年前、日本古来から見慣れた松の深い緑に縁取られた山々が無惨にも白骨の山と化したことがあった。その原因が、病害虫による物か、排気ガスなどの環境汚染による物か今日まで私には分からない。しかし、今年も松食い虫駆除の薬剤散布にヘリコプターは飛ぶだろう。日本の絵画、文学を育んだ美しい松林の死滅は私達に深い不安感を残した。しかし、自然界の生命力は人間が思っているよりしたたかであった。植物同士の闘争、共存は動物としての人間の生命観を超越しているように思える。自然界は松の変わりに広葉落葉樹の色頃に富んだ季節を楽しませてくれるようになった。★赤松は元々外来種の木とも聞く。元来照葉樹林帯に属する西日本の山々が何時の頃から松に覆われるようになったのであろうか。弥生時代後期大陸から伝来した鉄文化に寄る物と思われる。製鉄には多裏のエネルギーを費やすのは今日でも変わらない。大裏の木々が消費され、禿げ山になり河は暴走し、昔から住んでいた人々はあまりの環境変化に右往左往したことだろう。その頃の出来事が、伝説、民話として伝承されている。赤松の成長は早くそして火力も優れている。そんなことで鉄と一緒に海を渡ってきたのであろう。新しく、優れた技術はこの地方に富をもたらし、権力者を産んだことであろう。その証が無数にある巨大古墳として残っている。千五百年ばかり前、山を切り崩し木々を倒した土木工事は、今日で言う自然破壊が行われたことであろう。現在では植物に覆われ、自然の景観の中で何事もなかったように佇んでいる。★この数年少しずつ私達を包む山々の景色が変わっているようです。この季節には薄紅色の山桜が、白い小鳥が無数にとまっているような山法師の群落が、薄紫色の藤の花がと松林に変わりつつあるように思われます。そして、得も言得あ草木の薫りが開け放った車窓から鼻腔を擽ります。皐の宵は、冷気に湿った夜風が何処からともなく甘い花の囁きを送り込んでくれます。そんな時、雄大な宇宙の流れの中であくせくしている人間の浅はかさに嫌悪感を禁じ得ません。私達は科学の進歩という大義名分に御旗を掲げ、自然に対する思いやりを無くしすぎていないか。自分たちが生きることだけの為にこの地球を痛めつけてないか。近代人は後戻りできないのか。今一度自分の五感の範囲で生きる喜びの時を持つことを許してくれないのか。新しい、夢のような技術革新が、人々の生きることに自信を無くさせたり、社会の中で個人が孤立感を増大させたり、社会に不安感を募らせるより人として心の豊かさを実感できる社会への手段であって欲しいと思う今日この頃です。
6月
最近、朝早く目が覚めて困る。年のせいであろう。私の妻は明らかに先祖は農耕民族であったのであろうと思われるほど太陽の運行で一日が終始する。日が暮れると眠くなり、夜が明けると、たちどころに体調フルパワーとなって起き出してくる。つれあいの私ときたら、宵っ張りで夜は寝付きが悪く、朝の寝起きが悪く、二人の生活のリズムがかみ合わなくて、時々諍いとなる。★庭に蔓した二階で寝ていると、パタ、パタと足音が左から右へ、立ち止まったりと音を奏でる。街はまだ眠っている。妻の姿を想像する。私はベッドの中で何となく幸せな気分で夢の中と現実を行き来しながら、初夏の朝の気持ちよさに起きようかどうか迷いながらまどろんでいる。★パタ、パタという足音に、私が十代の頃の故郷の早朝を思い出す。そして、今になり足音にも年齢があるのかなとふと思う。その頃私の祖母が六十歳後半であったろう。明治生まれの祖母、年中朝早くから夜遅くまで、何かを見つけ体を動かしていたのが思い出される。空が少し明るくなる頃、母屋の納屋がガラガラと開き、たたきの上をパタ、パタと歩きながら、何をしているのか動き回っていた。そんなとき何を履いていたのか思い出せないが、布団の中で、着物を着てエプロン姿の祖母が、眼瞼にチラチラする。昔が遠のいたり近づいたり、止まったり動き出したりする音に、心地よさと温かさを感じて又眠りに入った。★また、高血圧であった高齢の祖母に何かあってはと思いながらどきどきした事もあった。初夏の朝は風がなく、少し湿ったひんやりとした潮風が戸の透き間から忍び込んでくる。祖母が木戸の留め金をはずし、島の村特有の軒先が連なった細く、曲がりくねった道が海に続いている。砂浜を柔らかく打つ波音と、磯の香りが、さあっと朝の露地の上を撫でていくように小高く、迫った山に忍び上がってくる。パタパタという祖母の足音が小さくなる。毎日、生活の生ゴミを海に捨てに突堤に行った。一度消えた足音が再び聞えると、待っていたように猫がニャーニャーと着物の裾にまとわりついて右往左往して朝食をねだっていた。家の中で一番しつけの厳しい祖母を、猫は大好きだった。残りのご飯に鰹節か、いりこをかけて持ってきてやる。こんな出来事が、毎日毎日飽きもせず繰り返され、祖母は八十三歳で脳溢血で死んだ。何も変わらあ変化のない朝の出来事、こんな事が豊かな平和な時間だったように最近思える。それにしても妻の足音も祖母の足音に似てきたように思える。
7月
「着いたぞ。起きろ」と先輩たちの蛮声が、気持ちよく寝ていた私を現実の世界に引き戻します。薄暗い三等車の油臭い床の上で図田袋の様に寝ていた新入部員が、ごそごそと座席の下から這い出してきます。列車は朝も十分明けやらあ見知らあ駅に向かって速度を落とし始めています。初めての山岳訓練に私を含め新人は緊張して声も出ません。ゴトンと蒸気機関車はプラットホームに止まります。タラップを降りると周りには駅舎以外の家は無く、水の溜まった光景が静寂の間に広がっています。どんよりと湿った雨雲が低く立ちこめ、時折雲間から黒く、急な岩肌が四方を囲んでいるのが分かります。革の山靴が小石の上を歩きザク、ザクと音が響き陰惨な風景に伴奏を付けます。この地が谷川岳、土合駅。その時代、山岳遭難で社会問題にもなった山の入り口です。何とも気分の滅入る雰囲気です。時折しとしとと降る雨は、衣服を濡らし益々新人達は寡黙になり屠殺場に牽かれる牛の群のように先輩の後を歩みます。今日一日どんな運命が待っているのやらと、不安と期待にドキドキしながらの生まれて初めての梅雨の一日でした。★梅雨が終わり夏休みになると、楽しい楽しい夏山合宿が始まります。40度を越える道なき登山口に60キロ以上の荷物を担ぎ上れと言われたときには、帰ろうと思いました。そんなことも考えず、この部を何となく選んだ自分に嫌悪感を覚えました。しかし、ここまで来れば成るようにしかならないと、思うしかありません。前を歩く先輩のお尻の匂いを嗅ぎながら昇る山道は地獄の苦しみに思えました。荷物の重さに両手はしびれ、パッケイジの悪いリュックサックは腰に当たり神経を圧迫します。岩場では荷物に振り回され谷に落ちそうになります。新人の中から落伍者も出てきます。夜も迫ってきます。初日の宿泊予定地についたときは夜の帳も落ち真っ暗でした。それから新人は食事を作ります。なんせ皆始めての経験です。後片づけがすむと真夜中のようです。翌朝は朝飯。冬の様に寒い、星の瞬く時間に起床です。今思うと楽しい思い出ですが、あの数日間は死あ思いでした。しかし、次の年になると同じ条件でも、コツが分かったのでしょう。周りの景色、高山植物の美しさが見えてくるのです。コツとゆう程の物ではなく、単に、ばてそうな人との我慢比べなのです。★今月は私の学生時代の思い出を皆様に読んでいただきました。この歳になり自分の歩んだ人生選択は、何となく山岳部を選んだと思っていたことも、その後の色んな人生での選択も、結局目に見えない自分の中にある糸に従っていたように思えます。私はギラギラ輝く夏の太陽に体全体を投げ出し、汗まみれなりながら無心に自然の中に同化する夏が私の原点であるように思っています。若い肉体、精神は無限の可能性があります。無限の可能性がある若き人々を諸手を上げて受け入れる様な社会、それが今の日本の社会を救う「神風」ではないのでしょうか。
8月

夏の空は青いキャンバス。綿毛のように白く盛り上がった雲が刻々とフォルムを変えながら天頂に向かって生き物のように成長して行く真夏の風景。青色と輝く白。白いドームは連なり幾つもの入道雲となり、天空に沸き立ち緩やかに流れ形を変えて行く。溶鉱炉のような灼熱の固まり太陽は肌に食い込むような光線を散乱し地上を焼き尽くす。道辺のひまわりも、真っ赤なカンナの花の葉っぱ、キュウリ、トマトの葉も白い埃に覆われ喘ぐように項垂れている。時折吹いてくる潮風に人々は夏の涼しさを初めて感じるように目を開けて空を見上げる。太陽が西の空に傾く頃入道雲の半ば辺りより黒く炭を流したような雲が山々の上空を見る間に覆って行く。白い入道雲が食い散らされるように黒い雲は空を覆い太陽をも隠した頃一陣の突風が水蔓を渡って行く。涼しい風に空を見る。突然パラパラと大粒の雨が焼けた白い地表の上を激しくたたき始める。辺りは流れる水のカーテンに包まれたようになる。夜のように暗くなり、時折青白い光が瞬く。急激な雨水は土塊の焼けたような匂いを辺りに漂わせる。先ほどまで近くに見えていた島々の景色も一瞬のうちに霞み激しく上がる水煙の中に消えてしまう。焼けた黒い甍の上を滝のように流れる雨は樋を乗り越え道の上を穿ち、溜まりとなり流れとなり海に消えて行く。逃げ遅れた人々が悲鳴を上げながらずぶあれになり、頭髪から水滴を垂らし軒先に飛び込んでくる。濡れたシャツは肌に張り付き、火照った体温で微かに揺れているようだ。思い抱いたように遠くに雷鳴が響き少しずつ辺りが明るくなると憑き物が落ちたように雨のカーテンが舞台のように移動して行く。西日に照らされた向こうの島は赤みを帯びた白い海岸線と深い緑に変わり、波一つない内海の夕暮れが広がる。その上を音もなく白い連絡船がゆっくりと滑るようにやって来る。時折屋根に残った雨がポトンと水たまりを打つ。人々は操り人形のゼンマイが直った様にゆっくりと夏の夕暮れの生活に戻って行く。私の少年時代の夏休みは毎日毎日こんな感じで過ぎていった。何をするでもなく、どこへ行くでもなく、日がな一日お天道様と一緒のような思いでしかない。★戦後すぐ日本津々浦々の田舎に育った子供は多かれ少なかれ家の周りの自然の移り変わりを友として過ごしたに違いない。それから55年後、私達の母国は豊かになり、子供も少なくなった。学校では米国のようになれば将来の日本は、平和で豊かな国に変わる。その為には経済の発展と技術革新が日本には必要と教えられたように思う。理数系の勉学が何よりも求められ、子供の優劣まで決めてしまった。しかし、到達してみればこの空しさは何であろう。豊かだった日本の自然を捨ててまでも経済的豊かさだけを求めたのは間違いではなかったのか。こんなにも殺伐とした社会になると思っていたであろうか。何回か方向転換する機会はなかったのか。★21世紀にはIT革命と新しい社会変革構造が必要と為政者は掲げているが、その為に国民が負う傷を再考する必要が有りはしないか。其れがせめてもの二度の敗戦に教えられたことではないか。敗戦記念日にはもう一度。愛しい日本の自然、将来の日本を背負って立つ家族のために自分の命を託した若者のメッセージを再読してみようと思う。 

9月

明日は九月です。さすがの猛暑も明け方には秋の気配を感じさせます。開け放った東の窓から紅い色に染まった空が、少しずつ淡い青空を侵しながら明けていきます。窓辺の木々が音もなくゆれ、黄金色に輝いています。何ヶ月ぶりかに大地の薫りを含んだ冷たく重い空気が室内に忍び込んで来ます。思わず夏ぶとんを首まで引き上げ、ふとんの温かさを心地よく感じて、まどろみの中に入ります。つい先日まで聞くことのなかった虫の音が、明るくなった朝の空気を震わせていることに気づきます。四季の移り変わりは確実にやってきていますが、この夏の暑さは異常な様に感じられました。長く透析医療に携わってきて、夏バテで食欲のなくなる患者さんを毎年少なからず経験しています。しかし、今年の夏バテは例年に比べ大きな負担を患者さん達に与えたように思います。 先日、自宅を整理していましたら、一枚の滋真パネルが出てきました。おかっぱ頭をし、白いシャツとショートパンツをはいた女の子が一人滋っています。細く長い足がシルエットとなり、少々波の高い海と瀬戸の小島を背景に浮かんでいます。浮き桟橋に打ち付ける波がしぶきとなり、きらきら飛び散っています。女の子は、私の娘です。多分小学校4年生の夏休みに因島へ帰ったとき滋したのでしょう。滋真には入っていませんが、私の長男と私の父がいました。長男はブルージーンズのショートパンツをはき、父は麦わら帽子をかぶっていたように思い出します。その頃、島にはまだ橋ができておらず、巡航船が尾道への交帳手段でした。お盆に帰郷した私の妹を、皆で送りにきたときだと思われます。台風が近づいていたのか、海は少々荒れていました。晩夏の昼下がり、太陽が気持ちよく降り注ぐ風の強い日だったように思います。子供は打ち上げる海水に戯れていました。その中の一枚でしょう。そのときの娘が20?才(詳しく書くと恐いので・・・)となります。亡父は70才前と思われます。やがて訪れる病魔にも気づかず、元気に毎日診療をしていました。その時ファインダーを覗き、時間を止めたのが私であることに気が付きます。今、一枚の滋真がこの数秒の間の時間を動き出させ、やがて時間は霧の中に形を崩してしまいます。その後何をしたのか思い出せません。あの夏のほんの数秒がよみがえるのみです。滋真はその時間と空間を切り取り、滋した人の世界を新たに作るものだと思います。今という時間はもはや過去、過去という時間は人生にとっては無なのでしょう。 

10月
地べたにベッタリと座っているとお尻からじわっと、大地の冷たさが腹の中まで伝わってくる季節になりました。朝の柔らかい光の中で絨毯のような苔が桜の樹々の中に広がっています。指先を苔の間からのぞく黒い土塊の中に潜り込ませると、夏の日の名残の暖かさが仄かに伝わってきます。時々背中の木立からバサバサと思いがけない大きな音がするので振り向くと、風もないのに桜の葉っぱが幹を伝い落ちています。秋の空気は音さえも冬に向かって変わって行きます。土手の下を流れる川の流れも思いなしかゆったりと変わったようです。岸辺に繁茂する雑木の色づいた模様が深い翡翠色の淵に神秘的な静寂を醸し出しています。川を望む公園の桜の幹にもたれて朝日を浴びているといつもと違う景色に出会います。大地に目を近づけるとほんの数ミリの虫たちが忙しそうに右往左往しています。小さな蟻は荷物を持ち樺色のでこぼこした幹の上を重力に逆らって急いでいます。時々縞模様の蜘蛛が音もなく降りてきます。生き物が冬の支度に精を出しているのでしょう。我々の生活の場の近くで、沢山の命が共存していることに驚きます。そんなあたりまえなことに驚く自分に気づき、愕然とします。人間生活に追われ、生き物として普帳の感覚が失われるこんな現代社会でいいのだろうか。風を感じ、四季の移り変わりを感覚だけで感じる時間が必要ではないのかとボケーッと考えながら、誠に非生産的な時を過ごしています。足下の地蔓には黄色、橙色、紅色の美しく着飾った落ち葉が無数に苔の緑を背景にちらばっています。夜露に濡れた落ち葉は見飽きることの無いぐらい蠱惑的な美しさです。★それにしても私たちの住んでいるこの国は自然の美しさに満ちあふれています。この豊かな自然環境と私たちが上手に生きて行ければ、21世紀この国はきっと豊かな資産を後世に残すことでしょう。この国の財産を切り刻むことにより私たちの経済を一時的に活性化できたとしても、それは将来この国にとって大きな禍根を残すことでしょう。豊かな自然と人間の共生は我々の子孫に教育よりもっと豊かな創造性と、感受性を受け継ぐことと思います。★帰り道とある建物を見上げると白い垂れ幕がぶらさがっていました。“親を思い、愛する心の教育をめざします。”自×党。教育を受けるのは子供たちでなく、大人ではないかと思い苦笑をしました。こんな日本に誰がしたー。
12月
小春日和で今年の師走が始まった。隣接する幼稚園から木の葉の殆ど落ちた木々の間を縫って子供達の甲高い声が我が家の庭先に溢れています。ケヤキの黄色い葉っぱがパラパラと落ち葉の積もった地蔓に降り注いでいます。土佐水木の疎らな葉っぱは薄緑色と橙色に頃られ朝日の中でひと際楚々とした美しさを醸し出しています。小楢やヒイラギ、椿の常緑樹に混じり野村紅葉、ななかまどの濃い赤が益々目に染みてきます。★昭和20年から50年頃まで、12月と言えばクリスマス一色に巷は沸き返っていました。小学生の頃はサンタクロースがイブに橇に乗って煙突からやって来ると信じよう、大人の言葉に乗ってあげようと思っていました。本当はそんな事あるわけないと思いながら、家庭の幸せを共有したいと、何と思っていました。きっと父親が家族のために寝食をも忘れ日夜働いているのを見ていたためでしょう。まして終戦後の物のない時代朝起きると不器用に包装された本が枕元にあるのを見つけた時の嬉しさ。”知らない間にサンタクローズがきたのだ”との戸惑い。サンタの国になんで日本語の本があるのだろうと思いながら開いた事を思い出します。今日の様に物の溢れている時代には、プロ野球の逆指名ドラフト制度のようにふざけた茶番劇のプレゼントには胸くそ悪くなりますが、これも時代の流れかと自分の子供には妥協した事を思い出します。★全国津々浦々の商店街はジングルベルとホワイトクリスマスの音楽が、スピーカーの割れたような音で満ち溢れていた師走の風景であったのは遠い夢の世界の出来事のように思い出されます。毎年、毎年涌く湧くするような電化製品が世の中に出てきました。白くピカピカな洗濯機、冷蔵庫そしてテレビに自家用車と日本の経済発展に伴い輝く未来が現実になり、働く事の充実感が世の中に溢れていました。将来はこの国、会社が老後も今働いた御褒美として安定した時代を約束してくれいる事に皆疑いをも持たなかったのです。だけど、クリスマスって日本人にとってなんだったんでしょう。ケーキを皆で食べる日、プレゼントを貰える日、酒場でバカ飲みする日、バレンタインデイが何の日か分からないと同じように変な日なのです。21世紀、白髪によぼよぼ歩く老人にクリスマスはどんな意味を持つ日になって行くのでしょう。包容力、同化作用の強い日本文化の中で、くりすますの日になって形骸化するのでしょうか。21世紀益々異文化の主張と同化、民族の混在化と潜在化の時代、アメーバーの様に何でも飲み込み色をかえ、形をかえ、何処が中心なのか分からない日本文化は最後まで生き残る事とおもいます。私達は二つの世紀にまたがり生きた事を感謝して、20世紀 ありがとう。