1999年『院長のひとりごと』より
1月

 1999年。なんと魅力的な年の始まりであろう。グレゴリウス暦即ち今日の太陽暦を使うようになり人類が経験する2度目の9が3回並ぶ年、日本人にとって始めて経験する、日本人好みの年を迎える。9月9日9時9分発の切符があればマニアの人にとって、泣いて喜ぶ徹夜の行列になるのは目に見えるようである。世紀末とかマスメディアは煩いことであろうが、我々和暦を国の主たる暦にして普段事務的不便を被っている国民にとっては、『今更世紀末、冗談じゃありませんよ』と言いたい。★21世紀を間近にして、景気が悪いと印刷工場は大裏のお札を刷ってこれでもか、これでもかとばらまいてくださるが、どなたがお掃除をするのであろう。国という大きな船を操る人たちに乗客は行く先をお任せするしかない。この船はこの10年ばかり前より目的地不明、時々船長さん不在で乗員には説明もなく気が付いた時には、タイタニック状態。よく見れば船底には牡蛎が付き、ペンキは剥げ、エンジンは時代遅れ、船員の士気は落ち、まして船長はもっぱら高級船員に任せっきり、乗客も団体旅行気分ではめでたいことこの上なし。しかし、少しずつこの船の行く先はおかしいと乗客は気が付いてきた。自分たちが行きたいと思っている方向と可成りずれていることを感じ始めている。皆待っている。船長の一言を。『この船の針路を変え、時代に即した装備と、組織の変革が必要と思われる。そのための時間、英知と若さが必要である。』★私達に最も身近な医療、福祉制度が大きく変わろうとしている。私は何回も制度の仕組み、目的、等を読み返すが嫌いだった数学の問題のように頭の中に入って来ない。当事者である国民の皆さんは理解できているのであろうか。私の頭が悪いのであろうか。後者であれば良いのであるが、私なりに考える。この問題だけを社会を構成している政治、経済、外交、国防、教育、文化等と切り離して理解しようとするところに問題があるようだ。将来どんな国をみんなで作ろうとしているのか、明確なイメージが未だ提示されてない。★冬空にシリウスが銀色に輝く。寒い冬空に青白く天頂に横たわっていた天の川はいつの間にか見えなくなった。この年になって、お年侠を貰えるならお願いしたい。凍てついた夜空に無数の星が輝く様なお正月を再び。

2月
初春の柔らかい日差しの中で、深緑色の梅の梢にポツリと赤紫の膨らみが丸みを帯びてきたのは、一月の中旬のことだった。冬枯れた芝の片隅に梅が一本植わっている。赤っぽい蕾なので妻に聞く。「確か白い梅だったよね。」怪訝そうな顔をして「貴方忘れてしまったの。」「蕾が余りにも赤かったので??。」冬の庭にはサザンカが赤く咲いている。梅のふた枝を花瓶に入れてみようと思う。緑柚の掛かった少し大振りな花入れに生ける。”生ける”なんてものではなく、単に差し込むだけだが。何処に於こうかと考える。花一輪ない御手洗いの棚にする。その棚に置くと座ったとき丁度鼻の高さに枝がくる。未だ梅の香りもない。この部屋に入ると、する事もなく梅を間近で見る。手持ちぶたさに、ああでもない、こうでもないと枝を動かしてみる。ある夜、このこ部屋の主賓の座に座り、いざと息を殺すと何かやけにお化粧臭い薫りがする。娘も「梅の香りがするよ。」と言っていたことを思い出す。それにしても、少し仇っぽすぎる。次の時何げなく、トイレットペーパーを臭ってみると何と、同じ薫り。毎日の徒然の楽しみに眺めていると蕾の萼のてっぺんが割れて黄緑色の、蝉の幼虫の羽のような柔らかい花弁が覗いてきた。枝に着いた小さかった沢山な蕾は膨らみ、一つ、二つと五弁の白い花が咲き始めた。レモン色の雄しべが雌しべを取り巻いている。今日も小部屋の扉を開け、私の社会の窓を開けると共に、仄かに今度こそ梅の香りが鼻を擽る。その内私の薫りの中に埋没する。夜半、暗く、寒いこの部屋を訪れる時、春の息吹が頬を掠めて行く。★四季折々咲く花樹の薫りが暗闇に漂う時、その場に居合わせた幸せに胸が熱くなる。そんな光景を詠んだ漢詩が目に付いた。

 梅花  王安石(1021〜1086)

牆角数枝梅  牆角 数枝の梅 凌寒独自開  寒を凌いで 独り自から開く

遙知不是雪  遙かに知る 是れ雪ならずと 為有暗香来  暗香来たれる有るが為に

築地の角の 幾枝かの梅が、寒さをしのいで いつのまにか開いている。

遠くそれを見て 雪でないことに私は気づく。 闇をただよう香りが とどいてきたために。

3月
海風はまだ寒かった。日ざしは春だった。海を渡ってくる潮風を遮る積み稾の陰に入るとぽかぽかと、眠くなるような心地よさだった。埋め立て地の原っぱでキャッチボールをしていた。小学生低学年の私にはたとえぼろ切れで作ったグローブでも宝物だった。軟式ボールを投げたり、捕ったりする単調な動作を一時間でも2時間でもすることが、あの頃の子供にはわくわくする、喜びの一時であった。その日の相手は違っていた。僕より7歳ばかり年上の従兄弟が相手だった。同級生の投げるひょろひょろ侠と違っていた。シュウーと風を切りながら近付いて来るボールに、いつもと勝手が違い、少々へっぴり腰で受けたものだった。グローブのまん中に球がめり込むと、子供のちいさな手はジーンと頭のてっぺんまで響き痛みが広がった。そんな素振りを悟られないように思いっきり投げ返す、安心してもっと早い球が来たものだった。だけど、痛いことと引き換えに自分と対等につき合ってくれている満足感で心は宙を舞っていた。其の時の従兄弟が突然逝ってしまった。一昨年父方の従兄弟が5人と家族、叔父夫婦と因島で楽しい一時を過ごした。そんな時、座を一番盛り上げてくれた最年長の従兄弟だった。従兄弟の弟から電話があった。布団に入った時、いつもの様に患者さんからかなと思った。「兄貴が死んだ。」電話の中から嗚咽を聞いた時、私の左手の中から彼が蘇った。★耕された田んぼの黒い土塊に、日に日にあたたかさが満ちあふれるのを感じる。あと何日かすると薄緑色の命が溢れ出てくるだろう。春は生命の輪廻を感じる。私達も偉大なる宇宙の小さな生き物であることを再認識しよう。山の木々や、虫達と同じ生き物として共に生きてゆこう。不景気、不景気と人間のことばかり考えず、生きる発想を、視点を変えてみよう。其の中に明日の社会の有り方の原点が見つかると思える。★私は最近こんな事を夢想する。朝日がさせば健やかに目をさまし、鳥のさえずりの中で微睡み。口にする物は多くも無く、少なくも無く、春には命の薫りを味わい、帳が落ちれば寝床に入り夢の世界で遊ぶ。そんな日々でありたいと。妻は言う。「この世で一番できそうも無い人、それが貴方。」
4月

★さくら さくら 弥生の空は 見渡すかぎり

  霞か空か 匂いぞいずる いざや いざや見に行かん

 入学式の頃、満開の桜は雪のように風に舞い何か薄桃色の向こうに新しい自分があるような錯覚に陥ったものです。小学生の頃には、先生の奏でる古めかしいオルガンに合わせて大きな声で、顔を真っ赤にして歌いましたね。卒業式、始業式にはこんな歌も何の疑いも無く歌って幸せでしたね。戦後3年目を迎えた純真な田舎育ちの小学生にとってはですが。★君が世は 千代に 八千代に さざれ石の 磐をとなりて 苔の むうすうまあで 3月31日私の来月号の原稿を首を長くして待っている担当者にお尻をつつかれながら、時間は刻々と無情に過ぎて行きます。窮余の一策、本日の新聞をと、藁をも掴む境地で記事を見ています。我が故郷広島県では卒業式に君が代斉唱をしなかったために、教育委員会が職務処分を発令するとか、しないとか。確かに、子供時代「国歌、君が代斉唱」と、普段見たこともないように緊張した表情の先生が号令すると、意味の全く不明な、やたら音域の広い間延びした歌を声をヒックリ返しながら叫んだ様に思い出す。「アメリカの国歌はいいよな」不謹慎に思っても見た。最近、君が代を国歌とする法律が今まで一度も制定されてないと聞いてひっくり返ってしまった。そこで小生今はやりのインターネットで調べて見た。★かいつまんでみると、日本の国歌と言われる「君が代」の歌詞の原歌は、民謡として親しまれてきた『古今和歌集』の巻七「賀歌」の冒頭に「読人しらず」の歌として 納められていて(もともと、君が代の「君」は、長寿を祝う敬愛する相手ならば誰 でもよかったらしい)それに曲が付けられ、「君が代」が「国歌」といわれるようになったのは明治に入ってからのことらしい。宮内省学部で旋律が作られ、当初は軍隊に於ける天皇礼式曲であり、国歌ではなかったらしい。明治21年「大日本礼式」と菊の御門を付けた「君が代」の総譜が欧米、諸官庁に配布されたときから暗黙のうちに国歌となり今日に至っている。しかし、憲法、法律に明記されず今日に至っているらしい。★私達の星、地球、は情報方法、交帳機関の急速な進歩年々狭く、その環境も悪化している。しかし、人類は21世紀には百億人を越えるのは時間の問題だろう。平和のかけ声と一緒に、生存競争の日々が来ることがあるだろう。その為にも、国家の主体性を相互に認め合う国で無ければ存在そのものが危うくなるのではないか。日本人として、個人が誇りの持てる将来の日本が見える為にも、私達がお互いに手を取り合って歌える国歌を制定してもらいたい。それが君が代でも。  

5月
五月の青空には、色とりどりの若葉が似合う。透明感の落ちた青空はもこもこと膨張する山肌の木々に生命を与える。瀬戸の島々は空にとけ込んで揺れている。私の心の中にある初夏、瀬戸内の白い砂浜より見る島々は揺れていたのだろう。長い間   そんな空気の中に佇むことを忘れている。★「島なみ海道」の愛称で明日、本土の尾道から四国の今治に島の上を橋が開帳する。瀬戸大橋、明石大橋と三本目の瀬戸内海を跨ぐ橋が出来た。巨額の費用を投じ本土につながった四国は何が変わったのだろう。自動車で東京から四国の実家の門前に横付け出来るようになったのか。地域経済が活性化したのか。何千年も船と言う手段でしか渡れなかった島々が車で移動できるようになったことが文明進化の恩恵であろうか。一時的な観光客の増加で喜んで良いのであろうか。巨額公共投資による地域の受けた利益と失ったものを考える時代になっては居ないだろうか。★日本自体世界の中では島国であろう。その為に他の国々とは異なった文化が育ち、日本の常識は世界の非常識と揶揄されている。海により他国より隔たっていることにより我々はどれほど多くの、民族、宗教紛争から免れ自分勝手な平和論で豊かな国になったことであろう。★私達の国が経済的に豊かになったことで、各地の島々が本土と結ばれ便利になった。しかし、目先の便利さに大切なものを失っては居ないだろうか。小さな島は橋の架橋になり、少し大きな島も多くの山は切り崩され、分断され、なけなしの道も観光バスが帳れるように広げられ、僅かばかりの畑さえ駐車場になり、美しかった、静かだった島の生活は変わって行く。人が観光客が来れば過疎の島は生き返ると唆され、結局若者は車に乗って街の生活に目覚め、移り住んで行く。観光ブームは浮気な女の子の色目使いと同じ。気が付いてみればしわしわ婆さんが佇んでいるだけ。★瀬戸の景色を楽しむには水蔓の高さで船の音を聞き、かき分けて行く青い海蔓に残る航跡を見つめ、島影よりい出て、島影に入る妙に時を忘れる事にある。橋の出来ることにより島から島への連絡船、フェリーは廃止される。過疎化する島の住人にとって船は長い間、そこに住む人々の社交の場であり、歩いて島の外に行ける只一つの足であった。橋が出来ることによりその手段さえ無条件引き替えに取り上げてしまう。生まれることは歓迎されるが、世の中で不要な者は闇にいつの間にか埋もれてしまうのか。★この国では最近最もらしくよく使われる言葉がある。「弱者に優しい社会」誰が作ったのか口当たりの良いコピーである。弱者に優しくなくても良い、明日の社会が見える国であって欲しい。 
6月
飛行場より洛陽へは高速道路を使い、約3時間の道のりでした。洛陽へは上海より、約5時間。関空から上海までは2時間弱の時間を必要とした。中国古代の都「洛陽」への道は余りにも近かった。車窓より見る風景は肥沃な大地がどこまでも緑にあふれていた。湿気を含んだ広大な平原。農道をはさんで並木路が淡墨色に埋没して消えている。三国史の時代何十万という軍隊が色とりどりの旗をなびかせる様な風景 とだぶってくる。それにしても人家は行けども行けども見当たらず、農地は整然と耕されている。洛陽の街へ近づくと人があふれ、廃車寸前の様な小さなタクシーがうんかの様に警音をならし狂った様に走っている。約30年前の日本の街を彷彿する様な生命力と猥雑さがプラタナスの街路樹の間に詰め込まれている。★この地を訪れることになるまでは約3年の歳月が必要だった。ほんの思いつきが形となり、異国の慢性腎不全の患者さんの役に立っている現実に感激する。また国と国との間に横たわる簡単ではない諸事に戸惑いながら貴重な経験もした。ここまでこれた事と、中医院の建物に私達が使っていた透析機器がピカピカに手入れされ、昔より綺麗になっているのを見て、思わず口許がほころんだ。それにもまして透析に携わっている人々の眼差しの純な事に二十数年前、日本の透析医療の創世時代を思いだした。★私が一番驚いたことは洛陽の人たちの顔立ち、物腰が余りにも私が日ごろ、接している人々に似ている事だった。これで日本語をしゃべれは総社の街角で会っても全く不思議でない人、いつも身近に付きあっている人と似すぎて頭がクラクラする。遣唐使として日本から約5千人の人達が胸を膨らませ、この洛陽を帳ったことだろう。世界一の都長安にはいろいろな人達であふれ、日本の若者達の青春は色々な人々との恋もあった だろう。そして日本の人達との間に子供もできた事であろう。そして約千二百年、そんな夢物語と変わらあ大地の風景を見ながら物思いにふける。★  肥沃な土地は豊富な食材を生み出してくれる。朝早くから街角には野菜、旺物が並ぶ。屋台、一膳めし屋は食欲を誘うにおいが溢れる。皆の生活は今日の日本に比べれば余りにも貧しそうだ。しかし、食生活の安さ、豊かさはさすが食の国中国を思せる。その中で私の口に今も残っている美味しかった物はぶつ切りにした生の胡瓜だった。その 豊かな新鮮な香り、歯肉にしっかりくい込む、生きている胡瓜。それこそ日本人の忘れてしまった自然の味付けだった。 
7月
鉛色の空気の中を、渦巻くように木々の間を滑り降り、絡まり流れて行く湿った白い衣。時々、聳えるような梢が影絵のように浮いては消えて行く。音もなく、体にまとわり着くかと思えば、稲光、銅鑼の音を伴い篠突く様に降ってくる梅雨。谷川は泥色に混濁し、白く泡立ち、逆立ち岩をも動かす様に下って行く。沢の樹影は濃く、水を含んだ木立の根本にはビロードの様な苔が広がる。水音は岩肌の谷間にこだまし、小鳥さえ怯えたように音もない。梅雨の合間には一条の夏の光が帯のように輝き、木々の間を掃いて行く。小鳥は一斉に囀りだし、透明度を増した沢の岩陰に魚影が見え隠れする。もうすぐ亜熱帯特有の梅雨の季節も明けるだろう。真っ青な夏空に入道雲が湧いて来るだろう。緑溢れる水辺の草から滴る水晶のような輝きは、水蔓に落ちて生命を育むだろう。夏の朝露は命の泉。楢、楠、椿等照葉樹林の葉が、夏の光に鏡のように大気中に光り輝く季節がもうすぐやってくるだろう。★この春、拙宅に小さな池をこしらえた。桜の花がぽとり、ぽとりと落ちて浮かんでいるのを見ながら、行く春を楽しんだ。水の中に何か動くものが欲しいので、強そうな「めだか」を二十匹程はなした。水草も近所の畦から持ってきた。余りにも少ないのでどこに生きているのか少々心配をしながら私の眼は池の中を彷徨っていた。カエルだけポチャン、ポチャンと元気に動き回っていた。カエルの池になるのかな、と心細くなっていた。五月に入り、池の浅瀬に目をやると針の先の様な黒い物がたくさん動いているではないか。メダカが孵化をしたらしい。日を追うごとにメダカは大きくなり、数を増し、稚魚も池の真ん中を一人前に泳ぐまでに成長した。こんな急ごしらえな水たまりでも、命を再生する生き物の強さに改めて驚く。しかし、この魚が日本の自然からいなくなるなんて、この国は豊かに成ったのだろうか。★この梅雨の季節にまた沢山な人命が失われた。自然災害に対応して治水事業、農業の効率化のため圃場整備、農道舗装等日本の自然環境はコンクリートの鎧甲で覆われてしまった。天よりの水はコンクリートの樋のなかを山間より一直線に海に流れ込み、大地の中に帰ることを遮断してしまった。天然循環の中で、人間の都合のみで環境を変えたことへの、神の怒りであろう。毎年、毎年雨の季節になると災害の場所は変われど同じパターンの被害が起こるのは、天災にあらず人災に他ならないであろう。しかし、不景気対策として今年度も同じ様な土木工事に莫大な国費が費やされている。昔から「過ちは改めるにしかず」との言葉もある。明日のこの国の事を考えても良い時代ではないのか。 
8月

暑さに 項垂れた葉っぱの間から緑色の多いトマトをもぎとり、大きく開けた口で、がぶりと囓ると種と汁が飛び散る、白いランニングシャツを汚してしまう。青くささと、お湯の様な液体が口中に広がる。トマトを一つ食べるにも異種格闘技の様に必死な気持ちでくらいつき空腹を満たした少年の夏。今日の冷えて、真っ赤なトマト、きれいに包丁の入ったトマト、甘いプチトマトは、可細い茶髪の女の子の様なものだ。キュウリ、いやナスビもしかり。あの頃の野菜は食べる者にも挑戦的だった。夏の自然は子供にとって生き残る事への教育の場であった様に思える。★夏休みには都会から訪れる子供達は田舎の餓鬼にとって実に眩しく、不思議な光で包まれていた。猫が昆虫に出会った時首を傾げ、前足で憶病そうにちょんちょん触る様に、田舎の子供達は物珍しそうに興味津々に遠くから都会の子を 取り巻いて見ていた。日が経つにつれ距離は近くなり、何時の間にか黒く焼けた肌と肌で遊び回っていた。毎日が新鮮で水々しく、田舎の子は遠くの町の知らない空気を体全体に感じ取ろうとしていた。★潮風が時折冷たく感じる時、一人一人と、船に乗って島を離れた。あれ程騒しかった砂浜も、いつもの淋しい景色に還っていった。夏休みは終わりに近づきいつもの島の生活が始まる。★最近といっても大分前になるが「少年時代」という篠田正浩監督の映画を見た。戦争が終わり疎開中であった主人公の小学生が二学期に間に合う様突然帰京する事となった。両親がなく、頭が良く、逞しく粗暴で優しい、貧しい漁師の同級生と心が帳い合う友達となっていた。その時が来た。駅まで遠い、海辺の粗末な彼の家から、爺さんの漁仕事を置いて、線路に向かって走る。シュシュポッポッと列車がホームに入ってくる。主人公は友達を探す。彼は見あたらない。親切なおじさん、おばさん、同級生達に見送られる混雑したホーム、駅をゆっくりと離れる蒸気機関車に牽かれた列車、主人公は混乱した列車の窓にたどりつき窓をあける。一心に、線路に続く道を見つめる。列車は夏草の茂る土手の間をゆっくりとカーブし、トンネルへ入ろうとする。その時懸命に追いかけてくる友達が緑の中を見え隠れする。主人公は窓から体を乗り出し手を振り名前を呼ぶ。見つめる目と目。列車はトンネルの暗闇に入って行く。残された子供は緑に映える線路の上で背筋を伸ばし、右手を真っ直ぐに伸ばし、左手を太股に付け直立不動の軍隊式の腹れを列車が見えなくなるまで続ける戦争の時代しか知らない軍国少年。そのシーンに覆い被さる様に流れる井上陽水の歌「少年時代」。何度聞いてもこのシーンとだぶり私はタイムスリップをして胸が詰まり涙が溢れそうになる。どうしてだろう。

少年時代  作詞 井上 陽水

 夏が過ぎ 風あざみ  誰のあこがれにさまよう

 青空に残された 私の心は夏模様 夢が覚め 夜の中 長い冬が

 窓をとじて呼びかけたままで  夢はつまり 思い出の後先

 夏まつり 宵かがり 胸のたかなりに あわせて

 八月は夢花火 私の心は夏模様 目が覚めて 夢のあと 長い影が

 夜にのびて 星屑の空へ 夢はつまり 想い出のあとさき

 夏が過ぎ風あざみ 誰のあこがれにさまよう

 八月は夢花火 私の心は夏模様

9月

拝啓、長月を迎え朝夕はめっきり秋の気配が色濃く感じられる今日この頃でございます。私達が住んでいる周りの草むらの中から聞えてくる虫の音が、日に日に早くなっています。ところで皆様恙なくお過ごしですか。私はこの四月、杉本家の池に引っ越して参りました〃初代めだか〃の一匹でございます。当初は二十匹ばかりの仲間と一緒にこちらに移住致しました。今では環境にも恵まれたのか数百匹の大集団となっています。何代目のめだかか判腹出来ない微塵子の様な可愛い奴も元気に泳いでおります。最初に入池致しました初代も今では一匹減り二匹減りと天寿を全うして天国に召され自然に還っております。私も妻と二人、水草の陰で昔を偲び懐かしむ日々が多くなっております。★当家のご主人様も夏の涼しい時間には池の端に座り、私達と遊んでくれます。ありがたい事です。気がむくと増えた水草の掃除もしてくれます。しかし餌をくれる様子もなく、仕方なく私共は自給自足の貧しい生活を余儀なくされています。最近巷では、熱帯魚という異国の綺麗なお嬢魚がもてはやされています。私共と異なり大層な物入りだとの事です。私共は見栄えは地味ですが、その代わり生命力は旺盛です。地魚の強みで天下を跋扈しておりましたが、最近では環境の悪化ですっかり影が薄くなってしまいました。しかしおかしなもので、最近では人間様が変に優しくしてくれます。噂によれば「めだかさらい」も出没するとかで、私共の組合でも防犯チームを作って対応しています。時々飛んできますトンボの言うには、あの油虫の親摺の様なグロテスクなクワガタ虫がなんと数百万円の値段がついて取引されているそうです。人間様の考えには私共もついて行けません。★水の外から時々覗き込む人間様は、白い頭や皺の寄った顔ばかりで元気な子供達が見えません。杉本家の隣地にある幼稚園、小学校からも子供の黄色い声が最近めっきり減った様です。全く寂しい事です。私共めだか族は粗食に耐え、日々水の流れに身を委ねているだけですが、バイアグラの必要性はなく子孫繁栄、誠に目出度い事と存じます。何不自由ない日本の子供は、このままゆくと希少動物の中に入りトキの二の舞にならなければよいがと、心ならずも心配しております。★この度のお手紙の最後にめだか族一同より人間様にお願いがございます。私共も昔の様に自分が住みたい場所に家庭を持ちたいものです。水草がおおい、かえる君へび君や、やもり君などと一緒に住めるどこまでも続く水路が欲しいのです。この地球は皆様方だけのものではありません。せめて畦のU字溝を撤去して欲しいのです。生き物達が仲良く住める世界に、人間様、ほんの少しで結構ですから協力して下さい。季節の変わり目は体調を崩しやすいものです。どなた様も体には十分気をつけて下さい。来春桜の頃にお手紙を差し上げたく存じております。                             敬具

                  杉本家めだか協会理事長  小池 目高 

10月
10月を迎え朝夕はめっきり冷え込むようになりました。しかし、日中は夏の様に蒸し暑く、体調の優れない人には応える日々です。透析を受けている皆様には体調の維持の最も難しい、季節の変わり目です。心の隅にでもこの事をしまっておいて下さい。それにしても、9月は世界中で天変地異に驚かされてしいました。ノスタルダムスの予言で一部の狂信的な人々に踊らされましたが、世間の人々の心を騒がした落とし前をどうしてくれるのだ。それ以前に、マスメディアの無節操ぶりに腹立たしく思い、その事を知っている自分に嫌悪感を感じ赤蔓するのです。★9月に入り休養をかね旅行をしました。約15年前ツアーで初めてヨーロッパに行きました。ローマに到着、バスで高速道路をフィレンツェに向かう車窓より、小高い丘陵には糸杉が続きその中に橙色の屋根を葺いた建物が見えました。その様な景色が真っ青な空の下に広がっていました。そんな景色の中で時間を過ごすことができれば、「いや、何時の日にか」と思うきっかけとなりました。その後その地方をトスカーナと知りました。★アメリカの友達にその事を話すとイタリア、トスカーナ地方のレンタルヴィラのパンフレットを送ってくれました。自炊用の台所がついた小高い丘の上のヴィラは長い間夢であった糸杉に続く建物です。一週間何もせず、ボケーとする為にイタリアにむかいました。★前々から憧れていたトスカーナの景色が、私の目の前に広がっていました。ヒマワリの収穫が終わり波打つ荒涼とした風景が見渡す限り広がっています。丘の間の浅い谷間には緑の灌木、雑草が生い茂っています。時折何かの音に驚いたのか茂みから雉が飛び立ちます。谷を越えた農家から犬の鳴き声が、木々の間から鳥の囀りが聞えてきます。後は建物を囲む高い松の梢を風が帳りすぎて行く音のみです。夜になると長い間忘れていた暗闇の世界が辺りを支配します。天空には天の川が青白く流れ無数の星が輝きます。テレビやラジオもなくゆっくりと光と陰の移り変わる時間を感じる事ができました。 
11月
本日11月1日は杉本クリニックの開院記念日です。13年目に突入します。★昨夕、思わあ珍入者が院長室を訪れてくれました。今日の日を祝福してくれるようなうれしい訪問でした。それは、元来私が余り好意を寄せてないが、最近あまりにも顔をみなくなり寂しく思っていた蛇でした。開院以来自宅で、散歩の途中で毎年何回ともなく見かけた蛇君、今年は遂に会えないのかと寂しく思っていた矢先でした。2尺余りのスマートな体をうねらして、入り口からご丁寧に入ってきました。丁度日曜当番も終わり帰宅しようと思っていたのを待っていたかのようでした。私は神様のお使いと思い懇ろに中庭の中にお見送りいたしました。開院来、周りの田圃も年と共に減り、のどかな田園風景が遠のくこの頃、本当にうれしい訪問者でした。★開院の時に”おぎゃー”と、生を受けた子供が中学生になり、この前を中学に帳っていた女の子が子供をもうけ、二十歳の若者は、日本を支える中堅となり、団塊の世代はリストラの荒波に揉まれ、社会のリーダーを自認していた世代は自信をなくし老人の仲間入りしようとしています。経済的に世界有数の裕福な国になっても、総国民将来不安症候はますます進んできます。私は今の日本の状況は宇宙の崩壊後のブラックホールを想像します。純粋均一価値集団の脆さをかいま見るのです。純粋な物質ほど脆弱といわれます。人間集団も同じではないでしょうか。発想の行き詰まった日本の国をダイナミックに変革するには何十年も必要でしょう。混乱も必要でしょう。しかし、始めましょう。今までよりもっと多様性を持った価値観を共有する国に生まれ変わる様に。★透析医療を担う私たちの中にも、今までと異なる社会構造の変化が問題を提起しつつあります。我々も今までの透析医療状況、知識に安寿せず将来を見据えて対応をせねばなりません。将来の医療を担う若者の教育、養成は私の大きな仕事と思っています。★この度、杉本クリニックの新しい幹部として、看護婦副主任 富田、臨床工学技士副主任 川南、管理栄養士及びコンピュータ責任者 安原を任命しました。透析グループの新しい情熱の中心として育ってもらいたいと思います。患者諸子のご協力を衷心よりお願いいたします。
12月

年の瀬も押し迫り、皆々様におかれましては、未来の繁栄を願い希望あふれる新年を迎えようとしておられる事と存じ上げます。 私もこの吉備の地を蕩々と流れる高梁川の清流で、心体を洗い新たな年を職員と共に迎え、地域医療の向上に邁進しようとかたく決心していました。 しかし、無情にも医者の不養生とはよくいったもので、体調を壊してしまいました。患者の皆様にご迷惑をおかけいたし誠に心苦しい思いをしております。皆様には、心よりお詫びいたします。

 来年には復帰いたしますのでもう少しお待ち下さい。皆さんと共に新たな年の幕開けの第1歩を踏みだしたいと思っています。大変ご迷惑をおかけしますが、今しばらくご猶予頂きたいと思います。皆様のご多幸を切に願い、これをもちまして1999年幕引きのご挨拶とさせていただきます。                            院長 杉本 茂