1998年『院長のひとりごと』より
2月
私が初めて花の種をまいたのは結婚3年目の秋の日だった。倉敷の勤務先の用意してくれた2階建ての家には日当たりのよい庭がついていた。白いプランターにパンジーとスイトピーの種をまいた。スイトピーは発芽して南向きの窓辺の花壇に移植した。パンジーは霜に当たり逞しく冬を過ごして春を迎えた。そのうちパンジーは大輪の薄紫色、濃紫色で覆われるようになった。春の陽光の中、白、ピンク、すみれ色。青色のスイトピーが窓辺に渡した竹垣に絡まり一杯花を付けた。甘く清々しい香りが庭に満ちあふれ時折り流れる風に乗り部屋の中にも漂ってきた。子供たちは2歳と1歳、私たち夫婦ははち切れんばかりに若く、毎日が社会の成長と共にあり、目にするものは皆輝いていた。何時の日までも人生は躍動し、豊かさは自然に押し寄せてくるような、そんな30余歳の日を思い出しながら、スイトピーの香りに目を細めています。★ここ数年、高級官僚といわれる人たちの汚職、接待問題の報道をみるにつけ複雑な気持ちに襲われます。彼らは私たち戦後教育を受けた世代を代表する指導者であるはずだからです。敗戦後、貧しさの中から、アメリカのように豊かな国を目指した日本国、その中で一握りの片田舎の秀才は郷土の期待を一心に受け、頬を紅潮させ憧れの東京を目指したはずです。純真無垢でひたむきな向上心と、社会に対する責任感と若者の気負い、それと裏腹の都会への劣等感。彼らを先頭に明日の日本の夢実現のため同時代の若者は、それぞれの社会で全力を出し走りました。そして約30年後日本は世界一のお金持ちの国になりました。豊かな国のはずなのに何か満たされない国民の生活、矛盾に満ちた社会制度、将来に希望のもてない社会保障など社会に疲労が残りました。先頭を走ってきた彼らの社会倫理観、職権乱用は目に余ります。しかし、同じ様に走ってきた世代を同じにする私に敢えて言わせてもらえれば個人の問題に終わらせて貰いたくない。戦後我々を育てた教育の問題、いや明日を担う子供たちの事を考える機会にしてほしいのです。★宗教でも国家でも、それを長く維持していきたいと思えば、一度といわずしばしば本来の姿に回帰することが必要である。それで、改革なるものが求められてくるのだが、自然に制度の改革ができる場合は、最も理想的である。だが、なにかのきっかけでその必要に目覚め、改革に手をつけた場合も長命だ。つまり、はっきりしていることは、なんの手も打たずに放置したままでいるような国は、短命に終らざるをえないということである。革命の必要性は、初心にもどることにあるのだが、なぜそれが有益かというと、それがどんな形態をとるにしても共同体であるかぎり、その創設期には必らず、なにか優れたところが存在したはずだからである。そのような長所があったからこそ、今日の隆盛を達成できたのだから。しかし、歳月というものは、当初にあった長所も、摩滅させてしまうものである。そして、摩滅していくのにまかせるままだと、最後には死にいたる。本来の姿にもどることは、共和国の場合、自発的判断の結旺か、それとも外からの圧力によるかのどちらかであることが多い。だが、共同体の活性化というこの問題を論ずるにあたって、やはり必要に目覚めた人々の苦労によって為されるほうが、外からの圧力によって無理じいの形で為されるよりも、良策と信ずる。

  (マキアヴェリ君主論より) 

3月
後立山連峰、鹿島槍から群青色の空に数条の雪煙が棚引いて見えます。信州、長野で繰り広げられた冬季オリンピックは今日の日本にとって吹雪の合間の青空のような清々しい日々を私達に与えてくれました。私はテレビに滋る雪景色を見ながら長いこと忘れていた冬山の事を思い出していました。★大学へ入学し、何故か山岳部というむさ苦しい集団を選択した事に未だ自分自身で不思議に思っています。その頃山岳部の古い、今にも壊れそうな山小屋が信州志賀高原の湖畔にありました。新人には冬になるとその地で雪山訓練が待ち受けていました。気候温暖な瀬戸内で育った私には、雪山を見ることは生まれて始めてのことでした。雪に覆われた高原の景色は山水画を見るように美しく、これから経験する白い悪魔達に弄ばれ様とは夢にも思ってもいませんでした。ましてや優しい先輩が、吹雪の中で鬼になるとは想像もつきません。初めて見る、触るスキーは嫌に長く、雪の中をかんじきなる物を履いて歩くなぞ想像を絶する初体験でした。雪山訓練は冬には人も行かない志賀山を目指す、我々新人4人、最上級生2名のチームでした。約40キロのリュックを背負い、かんじきを履き、出発地のゲレンデに穴をあけながら歩く姿は誠に恥ずかしいおもいでした。初めて履くかんじきは、思うように固定せず腰まで雪の中に潜る歩行は泣けてきます。ましてスキーを始めて数日で重い荷物を背負って木々の間を下るなんてのは、闇夜に二階から飛び降りる思いでした。まして曲がることも、止まる術も知らない私達3人の新人は、止まれは、転ぶことか木にぶつかるしか手は有りません。前に転倒すると背中のリュックは鉄砲侠の様に頭の上を飛び越して谷にすっ飛んで行きます。へまをすると人間も一緒にスキーと靴を残したまま、ジャンプをします。鼻から口の中まで雪まみれで、雪達磨が4個連なって歩いているようでした。その頃の山岳部の新人は看守に連れられた囚人の様で、山に入る度に”終わったら退部しよう”と思ったものです。吹雪いてきた中を目的地に着くとテントを張り、水を作り、飯を作って、食器を洗い寝袋で死んだように眠ります。朝、雪に覆われたテントから首を出すと足跡一つ無い銀世界と、青空。この景色が6年間の山暮らしを続けさせたようです。目覚めると体の隅々まで力が漲り、昨日の疲れは嘘の様に消えて、又しごきに耐える一日が始まりました。今の自分からは考えられない楽しい思い出です。★今月の末には雪も解け始め、天気の良い日には雪解け水がチョロチョロと流れ黒い土が見えるでしょう。草木の浅緑が命の再生を教えてくれます。オリンピックの感激を胸にうつらうつらと過ごしたいものです。
4月
耳を澄ます。ゆっくりと明るくなる朝靄の中に日常生活の音はまだ少ない。窓を開けると冷気の中に潜んでいた命の拍動が、鼻腔の中に忍び込んでくる。そして、くぐもったような音の塊が鼓膜を振るわせる。東の空に向かって目を閉じる。布団の上に座る。なま暖かい夜の残滓が少しずつ消えて行き、体の中からゆっくりと生命の再動を感じる。気持ちを体の中心に向けて凝集する。心の世界に先を争うように明け方の世界が飛び込んで来る。一つずつ皮を剥がすように音の塊の中を分け入ると、見えてくる。雀の囀りが、右の家の向こうから。鶏の雄叫びの向こうに鴬の微かな鳴き声を。人の足音が規則正しく近づいて、急に消えてく。心を山の向こうに集中すると、低い、低く沸いてくるような空気を揺るがす音が伝わってる。庭の赤い椿の花だろう。葉っぱに触れながらトンと湿った音で終る。何処からともなく、心に雲が沸くように雑念が音の世界を消してしまう。又日常生活が始まる。★春は、私達に普段忘れている生物としての素晴らしい能力が備わっていることを教えてくれる。空気のほんの少しの揺らぎの中に木々の再生を感じ、流れるかぜの中に新芽の弾ける季節を知る。私は疑わない。昔の人たちは、目で見える遥か前よりもっともっと前から、やってくる喜びや、恐怖や、悲しみを知っていた事を。そして、自分の生命と大地、宇宙と会話をしていた事を。命の再生と、終わりは自然の中に尊厳を持って存在していただろう。★私達は知性でもって身の回りの沢山な出来事を知ることが出来る様になった。天を揺るがす嵐の事も、山を裂いて火柱が吹きあがることも。そして、私達の体の中に住み着く生き物のことも、おぞましい癌のことも。★春になったら野の花の中で虫の音を聞きながらうとうとしたい。波の音の中で夢を見たいと思いながら、毎年夏になる。
5月
春の月は朧に、南の山の頂近くに懸かっています。青白い月明かりの中に山肌は白い煙が沸き立つ様に見え、私は一瞬立ち止まります。松林の黒々した塊を背景に雑木林の新緑は生命力に溢れています。その様は夜風の中で山が動いている様な錯覚さえ覚えます。此の十余年、山を覆っていた松林は松枯れで見るも無惨な光景でした。赤茶け、白骨化し山肌が透けて見えていました。緑の再生は自然の回復力の力強さと植物の生存競争の厳しさを目の当たりにしています。それに引き替え飽きることなく、自然環境に悪影響を問題視されている空中薬剤散布を続ける人間の愚かさを、思い知らされます。此の地方は照葉樹林帯に属していました。松林に山々が覆われるようになったのは、鉄の文化が韓半島より渡来してからのようです。そうしてみれば、本来の日本の自然景観に戻ったのです。植物の植生変化は長い時間をかけて私達の生き方、文化を変えて行くことでしょう。最近発掘されている縄文時代の巨大遺跡は現代人にメッセイジを送っています。自然と人間の豊かな共生の必要性を現代の人は少し忘れていませんか。★たった十年でも、おやっと思うことがあります。五月の空に鯉のぼり、日本の風物詩の一つです。私の長男が子供の頃、約二十年前、端午の節句に鯉のぼりを買ってやらず、何となく悪かったかなと思っていました。その頃近所には赤や青の鯉が、乱舞していたように思えるのです。しかし、年々歳々どうも鯉の数が減っているように思えます。約十年ほど前は時々、人里離れた新緑に包まれた農家の角先に鯉のぼりが旗めく様子を撮影に行った事を思い出します。山間の車が踏み外しそうな道を、当てもなくドライブをするのが好きで、私の楽しみです。しかし、最近は思わあ鄙びた所で突如として2車線の立派な道にでて驚かされます。日本の山間の道は年々整備され、快適なドライブを楽しむことが出来ます。世界に誇る公共事業は私達の生活を快適、かつ豊かにしています。そして、国、地方の財政も豊かに赤字になっているようです。★日本経済は不景気、不景気で渦巻いています。政治家の先生は景気付けの為多額の公共投資を国民にプレゼントして下さいました。人気の少ない場所を選んで立派な道路、橋、ダムを作られることでしょう。出来上がった頃には、利用者は白髪や、腰の曲がった老人ばかりでしょう。私達の選んだ先生達は本当に私達の将来を熟慮されていると感心します。膨大な公共物が出来上がった頃、我々の子供、孫達が此の国を見捨てないことを祈るばかりです。
6月
 紫陽花(あじさい)の花は黄昏時のほの薄暗い光がよく似合う。人気(ひとけ)の途絶えた路地裏に隠れるように、鮮やかな青い花房を水が滴りそうな葉っぱの陰から顔をのぞかせているそんな花は、私は紫陽花と呼びたい。時代遅れの中年男の片思いか。思い入れ序でに、格子の間から漏れてくる薄明かりにしっとりと濡れた石畳を、カッツ、カッツと遠ざかる下蔵の足音。角をまわる時、足音が止まり、濡れて乱れた後れ毛を直すのか、一間置いてゆっくりと遠ざかる音が、紫陽花の葉を振るわせる。そんな馬鹿なことを空想する、梅雨の季節の風物詩、遠い昔の世迷い言。★ピンクにライト・ブルーその上フリンジ付きとカクテルドレスに見間違えるような鮮やかな紫陽花、昔からそんなものと思っていたが、どうも間違いらしい。時は西暦18世紀、西洋は大航海時代を迎え、未開の世界に我先にと武力にもの言わせ金銀財宝略奪に血眼になっていた。キャプテンドレイクに代表される海賊達はスペインを打ち破り大英帝国を打ち立てたのであります。ヨーロッパから出たことのない人々には、見るもの、聞くもの珍しくキャプテン・クックを船長に学者先生を引き連れ南洋諸島に国のスポンサーで博物ツアーに出かけたのです。現代の宇宙に賭ける近代科学の夜明けを見る思いがします。その後、中国、日本にしか生育しない椿、石楠花、紫陽花を持ち帰り園芸種として珍重されました。持ち帰った植物はヨーロッパの気候、趣味にあうように改良され再び我々が目にしたときは同じものとは思えないほど西洋式に美しく飾られていました。椿はかの地の上流階級では珍重され「椿姫」とゆう、有名なオペラも上演されました。この数年、園芸業者に踊らされているのか、イギリス式の園芸が「ガーデニング」とゆう口あたりの良い言葉で流行しています。日本では江戸時代、園芸が流行、朝顔市、ホオズキ市が今でも続いています。「ガーデニング」といわず、園芸という言葉を大切にしましょう。★しかし、悲しいことに、谷間の石清水の滴る新緑の中にひっそり咲く、ガクアジサイは見る影もなくバタ臭くなり、柳腰のすっきり咲く侘び助は威風堂々、香水の香りを振りまく豪華な椿になってしまいました。★文化が混じりあうことは新たな価値観、発想を生みます。古いことに囚われず次世代の環境を作るには、勇気と決断と忍耐が必要です。しかし、長く民族が培った共帳の美意識を守るのに頑固であることはもっと大切なことと思います
7月

★白と黒のまだらな球が、白い線となり、鮮やかな緑のじゅうたんの上を一直線に飛翔して、ネットを揺らす。ほんの一瞬の静寂な時を置いて、スタンドを埋め尽くした観客の声が沸き上がってくる。勝った者は喜びの雄叫びとなり、負けた者は全身から空気が抜けていく様なため息ともつかない失望となり、それが大きな歓声になって空間を満して行く。

★今までワールドカップや欧州のプロサッカーの試合を緊張感のあるスポーツとして、お茶の間でくつろいで見ていた。”ワールドカップ”なんてと余り気にもとめず過ごしていた。日本チームがアルゼンチンと対戦するテレビを見るに及び、そんな余裕はなく、殆どおたく状態で、釘付けになる自分を見て驚いてしまった。世界の国々が今まで「ワールドカップ」に熱狂し、国を上げて、顔色を変えて、4年に1度のこの大会をを迎えていた事が、当事国になって初めてその魔力にとりつかれてしまった。これはスポーツではない。スポーツの名を借りた武器を持たない戦争に違いない。ボールをゴールに蹴り込む為、選ばれた11人は国の威信をかけて全知全能を傾け90分間闘う。代表チームは各々の国家及び社会の縮図であり、国と国における生存競争の原点である様に思える。極言するならばゴールに入るボール1個にはその国に属する人々の歴史、文化、宗教、怨念等全てをすりつぶしたエッセンスが乗り移っているに違いない。そして、国に対する同胞に対する思い入れの強弱が勝者になれる最大の条件になる事を肌で感じられた時、私の心を寒々しい風が吹き抜けていった。サッカー競技場にはスポーツの技術以前の要素が厳然と横たわっている。次回、次ゝ回のワールドカップを考える時は日本の若者達は世界の若者の持つ闘争心に匹敵するだけの国に対する熱き思いを持ち得るだろうか。戦後50年の経済発展の惰眠を貪ったつけは、21世紀初頭、世界の人口の爆発に対して日本の人口は激減する時、現在の日本国は若者に自由な発想と未来の力を与える努力をしているのであろうか。

その様な時代背景のもとで国政選挙が行われる。私達の出来る事は何であろう。国民の一人として、「不満があっても政治はどう変わるものではない」という発想はもう止めよう。国民一人一人が選挙を帳じて個人の責任で考え、国の未来に参加しよう。それが私達国民の出来る国民の権利であり義務であるだろう。このことが「ワールドカップ」で先ず一勝できる近道である様に思える。若者よ、選挙に行こう。そして自分で自分の国の未来を考え創造する力を蓄えて行こう。

8月

 ジャン、ジャン、ジージーと蝉時雨の音の渦が私を眠りの世界から無理矢理に現実に引き戻してしまう。そよとも動かないケヤキの葉に照り始めた夏の太陽が乗り移り徐々に部屋の中を沸騰させてゆく。夜明け前木々の中に貯まった冷気が、時折小波のように部屋の中に忍んでくる。空には雲一つなく、暑い夏の日が予感される。★私にとって夏の季節は特腹な時間だ。自分の体と心が生き物として感じられ私の人生の原風景に思える。夏の陽は、青年の肉体の成長と昂揚、はたまた加齢に伴う衰えを鼻の先に突きつけてくる。夏の太陽は素直だ。そして、そんな自然の中で生きていた自分の環境に感謝しよう。ギラギラ光る陽光の中で息をして、食べられる物をむさぼり食い、眠たければ寝て、何も考えずに過ぎゆく時の中を浮遊していた時代に感謝しよう。★島の夏休みは、海と青い空、潮風と夜の星。約1ヶ月間はその中に浸かっていたようだ。潮の満ち引きで裸になり、月が出れば海に潜り夜光虫の幻想的な光の中で夢を見ていた。天の川を見上げては、流れ星に胸をときめかし番台の上で寝入ってしまう夏の夜だった。『涼しいうちに勉強をしましょう』と日課表を作るが、机に向かい涼しい時間に快眠を貪っていたことを思い出す。その習慣は今も消えず、夏になるとどんなに暑かろうが太陽が射そうが気持ちよく眠れるのは天のあの声『勉強をしなさい』が催眠術になり今でも覚醒していないのかと心配をする。★約50年前、暑く、静寂な夏の日。私が日本の国を思うとき厚い雲を抜けた所に青い空白い入道雲がある風景が脳裏に浮かびます。敗戦、私は生を受けて数年後でした。この国で何が起きたのか理解すべもない年でした。しかし、周りの大人達の奇妙な静けさ、戸惑い、やけに明るい表情が心の片隅にシミのように残っています。その後私達の祖父、父達の世代の努力は日本に未曾有の経済繁栄をもたらしました。しかし、あの日本の夏の風景は一つ一つ借金の形のように消えてゆきました。今日の豊かな時代を思うとき、理不尽な戦いに不本意ながらもこの国を、家族の未来を思い尊い命を投げ出した若者達の言葉を思い出してみたいものです。

生をこの国に享けしもの なんぞ 生命を惜しまん愚劣なりし日本 優柔不断なる日本

汝いかに愚かなりとも 我ら この国の人たる以上その防衛に 奮起せざるをえず 

林 尹夫の遺稿抜粋「わがいのち月明は燃ゆ」より

★現在の日本政治のていたらくを彼らが見てなんと感じるであろう。私達は軍国国家の代わりに「自由、民主主義」という言葉を貰った。しかし、日本人が長い間に培った心をも捨て去ったのではないか。今私達に必要なことはこの国に生まれて良かった、日本人で良かったと思える誇りと自立する燃えるような若者の情熱を引き出す指導者の出現であろう。

9月

私は疲れて、何となく時間を費やす時には、テレビの画蔓に目を彷徨わせています。気持ちよくうとうとしていると、私の平和な時を、突然焼き餅を焼く女のような甲高い声が部屋を震わせ、脳味噌をかき混ぜるような騒音に包まれます。最近の民放のCMは音の暴力と言っても間違いない様な不愉快な騒音を断りもなく家庭に持ち込んでいます。何時の日からか、家庭の部屋はゲームセンター化し、音と光の狂乱に溢れています。私はCMの時間、自動的に音裏が押さえられるTVが発売されれば直ぐにでも購入するでしょう。子供にとって有害な番組を映さないようにするVチップが検討されているなら、高調性の聴力低下傾向にある中高年齢者の健康管理に老人チップも考えてほしいものです。それにしても民放番組の痴呆化傾向とテレビ村失業者対策の多いこと。若いときは二枚目、美人タレントで稼ぎ、年を取ればグルメ、旅番組と芸のないこと甚だしい。まるで視聴者はブラウン管からテレビ村を覗いているような錯覚さえ覚えます。日本の南から北の端まで一億人が同じ事をしているのかと思うと今日の日本の混乱、さもあらんと納得できます。恐怖の均一列島。「単一、隔離文化圏の多情報化社会に於ける集団の進化」の実験をこの国で意図的に試行されているのではないかと、勘違いしそうになります。最早我々は、世界人類に先駆けてクローン化しているのではないか、最も進化したホモサピエンス-ジャポニカではないかと思ってしまいます。★天候異常を思わせるこの暑い夏に暑さを忘れさせてくれるような出色な連続番組が楽しませてくれています。本物の舞台と、個性溢れる出演者に恵まれた経済対策国会は安物のドラマなんか蹴散らして日本の伝統的議論を披露してくれています。鈍牛のドンは壊れた蓄音機さながら「誠心誠意努力いたします。」そういえば少し前まで誠意大将軍といわれたタレントがいました。数年前の性事改革、いや間違えました、政治改革の時も「やると言えば必ずやります。」とTVで言ったばっかりに翌日辞めた首相もいました。「銀行は潰しません。」と演壇で大見得を切っても信じていいものやら聞いてる方の胸がどきどきします。我が国の首相は国家存亡の時と言われても国会の論議を見る限り、危機感が国民に伝わってこないのです。太平洋戦争が始まりいつの間にか一億総侠砕に突入したあの忌まわしい歴史の学習効旺は戦後の民主教育の中では育たなかったのでしょうか。しかし、世界の異文化の中で新しい価値観を体得、活躍している多くの優秀な日本人も育っています。今こそ、この村社会の将来を若い人たちの情熱、力、能力に託す勇気を持ってほしいものです。 

11月

風もないのに青い煙が紅葉の僅かに残った梢の間を忍ぶように朝靄の中にとけ込んで行く。朝露にしけった落ち葉を燃やしているのであろう、松の木立が墨絵のように見え隠れする。時折、甲高い鳥の声が静寂を破るように木立の中に響き、消えて行く。竹箒で掃いて居るのかザア、ザーと規則正しい音に、ゴホン、ゴホンと煙に咽ぶ低い声音が芝垣の間から聞えてくる。登り懸けた朝日が木々の間を光の帯になり紫煙の中で踊っている。鬢に白髪が混じり始めた男は、よいしょと、腰を伸ばし縁側に腰を下ろす。腰帯に下がったキセル入れからキセルを取り出し、莨を詰める。藤沢周平の時代小説風に初冬の朝を、私は想像してみた。彼の書く江戸時代、市井の生活風景に現代人が心の安らぎを得る理由は何であろう。★彼の多くの作品は大都会、江戸の棟割り長屋で繰り広げられる。現代人には想像も出来ない不潔な生活環境、理不尽な人生に沢山な人々が、毎日の生活に苦しんでいたことであろう。しかし、一方人々の間に共帳する倫理観は、細やかな人情、溢れる愛情、豊かな環境への感性となり、彼の作品を濾過した様な日常生活も有ったことであろう。藤沢周平の世界は現在の社会で失いつつある日本的な世界を、読者の心の中に再現する夢を託しているのだろう。★開院11周年を迎える。今年透析生活10年目に入る患者さんは6名おられる。その中に82歳の平田義子さん、にこにこと笑顔をたやさず、「先生、いつもお世話になります」と私に同じ挨拶をされる。日焼けされた顔の中のしわは白く、毎日の生活が偲ばれる。すたすたと家のまわりを夢見る様に歩いておられる義子さんの姿が浮かんでくる。家族の皆様のお世話は本当に大変だろうと偲ばれるが、年相応の日常生活が維持透析医療の中で可能なのも、家族の方々の愛情につきると思われる。 高齢者の維持透析が生活の中で可能な事は、家族、社会との連携が絶対必要と思っていた事が目の前で証明できて本当に嬉しい。しかし、こうした透析医療も、重大な合併症に敏速に対応して下さる大学、民間総合病院そして、透析専門医療施設等の皆様の御支援に恵まれている事も大きな要素と思われる。★今後益々高齢者医療の需要が増加する中、透析医療も歩調をそろえ、体制を整えていかねばならない。一医療施設の問題としてではなく、地域医療全体として、福祉、介護制度をふまえた中で、創意、工夫、協調をしながら対応していかねばならないだろうと思われる。

12月
チック、タックという音が、どんな家庭の静かな茶の間にも規則正しく時を刻む時代があった。ボーンと時を告げる低く、空気を震わす音。そんなゼンマイ時計は家族の一員であったようだ。先日、倉敷の旧家を訪れた。そんなぜんまいの柱時計が規則正しい時を刻んでいた。居間から見える坪庭の大きな皐の樹は、周りを囲む甍の光の中で美しい緑の葉に包まれていた。障子の中にある手ふきガラスは、光景を少し歪ませて優しい初冬の色合いを見せていた。★私は昭和42年日本医科大学を卒業した。世の中は若者の熱気で満ち溢れていた。聞きかじりの学生運動用語を駆使し口角泡をとばし、その時の社会矛盾をがなり立てていた。医学部でもインターン制度廃止運動でデモ行動に揺れていた。我々は結旺的にはインターン制度最後の卒業生になった。新しく研修医制度が始まり現在に至っている。その結旺より有能な臨床医研修の制度が出来たのか、全く疑問であり、今考えてみると未だインターン制度における臨床研修の方が良かったのでは、と思われる。蛇足ながら今日の日本の混迷状態と政治的解決方法を見ていると、あの頃と余りにも手法の変わらなさに愕然とする。★インターン闘争の手段として我々の学年は自主研修カルキュラムの下、学内立てこもり闘争を行っていた。戦前に建て使われてない病棟の一室が我々に提供されていた。歩くとミシミシと廊下は軋み、夜ともなれば裸電球が風にブラブラ揺れるような寂しい建物だった。ある夜、地下の薄暗く、コンクリートがむき出しの風呂場に一風呂浴びようと出かけた。裸電球が湯気に煙る、誰もいない広い浴槽に入ろうとした。突然「杉本、お前本当に馬鹿やのお」と九州訛で同級のWの声がした。抜き打ちに足下から斬りつけられたようで言葉に窮し、にやにやしながら湯の中に体を沈めた。沈黙だけが流れた。その言葉はそれ以来私の心の中でシミになった。★卒業31年目の今年、私が幹事になり児島のホテルで同級会が行われた。全国津々浦々から夫婦同伴、単身者等45名が集まった。学生時代の若者特有の猛々しさ、傲慢さ、攻撃的な瞳の輝きは柔和で、成熟した自信にあふれた医者に変わっていた。酒席の時間も爽やかな、穏やかな空気が流れ瞬く間に終了した。★学部4年生の担当教官であった循環器内科では世界的権威であった、木村栄一先生が眼鏡ごしに柔和な笑顔でよく言われた。「君たち日医大の生徒は東大の学生に比べ本当に勉強をしないが、一つだけ良いところがある。素直で大らかなことだ。」先生も本当に言葉に困ったのであろう。同級生の顔を見ていると、毎日の診療で患者さんに信頼され、答えている自信に裏打ちされた充実した人生が垣間見えてくる。日医大の校歌に”殉公克己”という言葉がある。この年になりやっとその意味が朧気ながら理解できる。そして、友という言葉の意味も。★W君は精神科の医師だ。彼の邪気の宿らない子供のような瞳にあい、風呂場の湯気が消えて行くように思えた。