1990年『院長のひとりごと』より

2月

 冬枯れの、雑木林の中を歩く時、自分の踏締める落ち葉の渇いた音に心が和みます。響かせ、小鳥の驚いて飛立つ音の大きさに思わず回りを見渡してしまう自分に苦笑します。空気のさざめきに命の再生を、木立を漏れてくる早春の陽光は、恋人の肌にも似て優しく感じられます。梢の膨らみの囁きが、体を震わせます。南斜面の、竹林の下の落ち葉をそっと捲るとありました。冷たく湿った黒褐色の大地の中より、生れたばかりの霞のかかった様な萌えぎ色の苞が一つ顔を出しています。初舞台に出た娘の様に、初々しく、危なげな蕗の薹(ふきのとう)≠ヘ春の到来を教えてくれます。

 人間の欲望は、かけがえのないこの星を蝕んでいます。

地球は人類だけの物ではなく、小さな虫達にも、道端の雑草にも、名もない木々にも郷里なのです。一人一人が、四季に訪れる木や花の表情に、水の流れに、風の音にほんの少し心を傾ける余裕をもてば、自然の美しさを、皆が生きる喜びを保ち、そして創造する知恵が生れてくるのではないかと思うのです。

4月

▼今年も同じ場所に見つけました。枯れ葉の交じった、瑞々しい雑草の中から、にょき、にょきとつくしが頭を出し、昨年より二週間も早く桜が咲いています。不吉な明日を感じながらもわくわくするような、新緑に満ち溢れた時間がやってきました。

▼私が初めてゴルフ場へ行った、二十余年前の一日を、昨日の事の様に思い出します。ボールを飛ばす楽しさより、新緑に溢れた、草の匂いのする広い芝生は私を魅了しました。夕暮に、緑のうねりが醸し出す影は美しく夢の様でした。その後、何十回となくゴルフに行きました。しかし、残念なことにあの日のように、心から自然を楽しむことは出来ません。

「ゆとりの時代」とかで、国を挙げて余暇の過ごし方を考えてくれています。無精者の私が、十年後の春の日、鳥の声を聞きながら心休まる緑の空間で、ゴルフやテニスのボールに追っかけられずに、うつらうつらと日がな一日過せる「リゾート時代」がやって来るのでしょうか?

5月

 五月になると、靄の様な緑に包まれていた山々も、呼吸をするような勢いで、色々の木々で盛り上がって来ます。春の自然を緑と表現するには、余りにも豊かな色彩で苛立ちを感じます。

▼日本人や多くの民族にとっては、緑は平和、安らぎ、生命、成長等幸せの代名詞ですが、恐怖、不気味、毒薬等私達には考えのつかない意味を持つ民族が存在する事も、人と自然の係わりの複雑さを考えさせられます。

▼私の寝ている和室には東向きの窓があります。西側には、聚楽の鴬色の壁があります。私は蒲団で寝ています。ある朝、小鳥の囀りに、半分夢ごこちで壁を見ました。何と、壁が一面山吹色に輝いているのです。「何なに、金の山に来たのかな?」と、夢と現を彷徨っていると・・・。「朝、起きろ!」階下より愚妻の優しい声がとんできました。朝日が窓の外の欅や楓の梢を通し影となり壁の上で揺らめいていたのです。春の朝の夢物語でした。

今日も元気に頑張ろう!

6月
瑞々しい緑が迫って来るように透明な晴れた一日、校医をしている幼稚園の健康診断がありました。校庭は初夏の日差しに眩しく、子供達の白いシャツが目に染みるようでした。モダンな小学校の校舎の庭を挟んで幼稚園は建っています。平屋の年季の入った木造の建物です。ガラガラと引き戸を開けると、子供達の足で磨き上げられた黒光りのする、節だらけな板の間の部屋に続いています。開け放した低い窓から手が届く所に花が咲いています。わいわいと裸の子供が入って来ます。聴診器をあてるときゃっきゃっと笑います。一人が笑うとつられた様に笑いが広がります。だけど、この狭い部屋では耳障りな音ではないのです。子供の声が木造の古い部屋で温かい心の休まる空気を醸し出しているのです。雨に洗われ、ささくれだった木枠の窓を通して五月の青い空があります。子供が走る廊下のきしみが心地好く遠のいていきます。職員室のぎしぎし軋む椅子に何時迄も座っていたいと思いながら、立ち上がりました。
7月

▼欝陶しい梅雨が終わると青空に入道雲が白く、眩しい夏の陽で皮膚の底で眠っていた若さを呼び覚ましてくれるような夏の季節が訪れます。照りつける太陽が痛いようで、吹き出す汗がとめどもなく流れ出す夏は、私にとって一番好きな季節です。

▼私の育った家の5ー6メートル先は瀬戸内の波が打ち寄せる浜辺でした。子供の頃、夏一番の海水浴は学校から引率され、近くの割に広い浜辺で始まったものです。毎夏、海遊びで明け暮れていた子供達にとっても、何となく緊張と嬉しさで、はしゃいでいました。『海に入って!』先生の号令でゆっくり足許より海水が胸まで上がって来る時、冷たさで息が詰まる様な、心臓が縮じこまる様な一瞬、「夏だー」と痺れたものです。

家の前の海では、よちよち歩きの子供から中学生まで一緒になって泳いでいました。海水パンツのない頃、白い下着が水着でした。濡れたふんどしの前が何となく黒っぽく、水をはじく焼けた肌の中学生たちは、子供にとって眩しい存在でした。ふんどしの前だれを使って小魚をすくうのを見て、早くふんどしが似合う年になりたいと思ったものです。

8月

▼猛暑お見舞い申し上げます。
夏は音の博物館です。チョロ、チョロ・・・チョロ・・。苔むした岩肌より滴り落ちる水音は命の音です。

音立てて   清水あふれをり        瓜をどる          及川 貞

 井戸の冷たい水でスイカを冷やした事を思い出します。包丁を入れるとバリバリと割れた赤いスイカ思いきり顔ごとかぶりつき、びしゃびしゃに濡らしたランニングシャツ。蛙の様にふくれた腹でひっくり返った番台の上。息も苦しく見上げる空に白い入道雲。夏には子供がぴったりです。ゴロゴロ・・・ゴロ・・。青空が急にかき曇り、風が木々をザワザワと吹き渡る時、空気を振るわす遠雷の音はへその下にずーんと快感が走ります。しかし、最近ではその音を聞くと停電が心配で落ち着きません。盆踊りの太鼓の音が遠ざかる頃、夜になると虫の音が心地好く聞かれる様になります。夏はギラギラと暑すぎても悪いことはありません。

9月

▼お盆が過ぎると昨日までの猛暑が「どこかにいってしまたのかな?」と錯覚するような夜風が、久しぶりにあった女のように、そっと通り過ぎて行きます。

▼「もう幾つ寝るとお正月・・・」と、胸をどきどきさせて待った師走の寒い夜。九月の新学期まで後何日と指折り数えて落ちつかなかった日々、今思いだしても冷や汗が出ます。
▼毎日やれば宿題なんかお茶のこさいさい、作った計画表を守ったのも、ほんの三日のみ、気が付いた時には手の付けてない絵日記、工作、その他諸々。明日はやろう、明日はやるぞも、掛声だけで残る日にちあと数日。机の前に座っても、怖い先生の顔と、言分けの文句ばかりで全然進まない。

四十年経った今も、人間の性格は変らないものだなあと、つくづく呆れはてながら筆を置きます。窓の外では、虫の本格的な音楽会が始まっています。

10月

 ★台風が通り過ぎると、肌に季節の移り変わりがしみじみと感じられるようになります。稲穂もたわわに実り、田んぼは黄色に色づいてきます。彼岸を迎えると忘れることなく畔道は赤い縁取りで飾られます。葉っぱをもたない首の長い茎の上のけばけばしい花は、私にはどうも好きになれません。

秋晴のある一日、久しぶりに私の好きな樹に会いたくて、自転車で山端につづく細い道を漕いでゆきました。その樹は、南に田園が広がる山裾の小さな集落の細い道が家並に吸込まれるように入った所の三叉路にあります。樹は回りの古い農家を抱え込むように四方に枝を伸ばし、足許には苔むした地蔵さんを従えているはずでした。目的の場所は妙に明るく、青空が広がっていました。足許には、ふた抱えもある根っこが、年輪を晒していました。私は、思わずそこを遠ざかりました。何百年も人間と一緒に暮らした大木のため息が追っかけて来るようで。

11月

★汽車の中で、身体を揺すられながらこの原稿をかいています。心地好い震動が、伝ってきます。眠気を誘う落ち着いた時間が、長崎に向かって運んでくれています。車窓から、筑後平野の稲刈りの終わった晩秋の景色が広がって見えます。

★旅の楽しみの一つに見知らぬ人とのふれあいがあります。初めての土地、思わぬ出会い、色々の思い出が浮んできます。ゴットン、ゴットン、レールの継ぎ目の規則正しい音と、鈍行列車の硬い椅子は遠い昔の事の様です。夜行列車で乗り合わせた若い娘の、白河夜舟でもたれ掛るたびに、何となく緊張して眠れなかった事がほろ苦く思われます。

自分の背丈より大きい真黒い蒸気機関車の車輪が近づいて来る時、胸はドキドキ、手の中は汗でびっしょりと緊張した出発の不安と期待は何時までも忘れたく有りません。

12月

★師走と言うのに、変に生暖かい風が吹いています。季節外れの台風が来たり、刈り取った稲に実がなったり、日本の気候はどうなっているのでしょう。

★この暑い夏の日に始まった増築工事も十一月末で終了しました。焼けるような鉄骨の上で汗を吹き出させながら働いていた職人さんの赤銅色の肌が、出来上がった白い外壁の中に浮き上がってきます。

 この半年の間、いろんな職種の人々に接した事は何物にも替えられない私にとっての贈物でした。ペンキの匂いに息苦しい様な部屋べやを歩く時、五年前開業を思い立った日々の事が思い出されます。未知の世界への不安に眠れぬ夜を悶々と寝返りを打った長い月日、何度も何度も設計図を眺めては夢見たあの頃、過去の日は夕暮れの景色の様に美しく心の中に長い影を残します。新しい建物に、職員、患者の皆様、多くの人々の良い思い出が刻まれるような明日に挑戦しようと、燃えています。