2021年8月

 先日、ある会合に出席して黙祷する機会がありました。また8月は原爆や終戦の節目を迎え、お盆で墓参りをする方も多い時期かと思います。現代の日常生活で祈りや黙祷というと、亡くなった方を偲ぶ印象が強いかもしれません。しかし私は、人と人が静かな時間を共有する営みには、もっと幅広い力や温かさがあるようにも感じています。
 笑顔で和やかに語り合うことや、気の合う人達とにぎやかに過ごすことの楽しさは、誰にも否定はできません。コロナ禍での感染対策として三密を避け、飲食を伴う会合を控えるよう求められる現在の状況が、辛くてつまらないと感じられるのもよくわかります。またいつも明るく声をかけてくれる人には、何だか励まされるような思いがするのも事実です。では言葉の少ない静かな人間関係は、ただ冷たくて味気ないだけなのでしょうか。
 うちのクリニックの患者さんには、物静かで心優しい方が沢山おられます。職員もまた同様です。もちろん怒りや不満の声を上げる方々もおられるので、それを放置していいという訳ではありません。「あの人は何も言わない、何もしてくれない。」というのは、どこでもよく耳にする話です。休みなく努力していても更に浴びせられる否定や批判の圧力に、もう疲れ果てたという声は医療や介護の現場ではありふれたものになっています。
 焦らず慌てずにいきましょう、大丈夫ですよ、という肯定の思いをしっかりと共有したい時、祈りや静けさの力がじんわりと感じられます。努力を放棄する訳ではなく、人を圧迫し追い立てるような力に振り回されるのでもない。静かに継続する意志が、祈りによって再確認できる気がします。自分の力がいかに弱く小さくても、休み休みでもいいから、大切なものを諦めない。そこに言葉や笑顔がなくとも心配ありません、私もあなたも決して一人ではない。暑い夏のひとときに、また静かに祈ってみたいと思います。

もみじ8月号 四方山話より