2019年6月

 「和顔愛語」という言葉が、医療関係の方の座右の銘として挙げられるのを時々お聞きします。わげんあいご、穏やかな表情で優しい言葉をかけるという、禅宗のお坊さんが広めた考え方です。人の生死に関わる事態も発生する医療現場であるからこそ、こうした心構えが必要なのだというのはよくわかります。
 最近は学校や宗教施設、イベント会場などを狙った銃の乱射事件が海外からよく報道されます。その背後には、世の中や特定の社会集団に対する激しい憎しみや怒りが見え隠れします。憎悪や攻撃性は銃弾ばかりでなく差別や罵倒の言葉となって人に襲いかかることがあり、欧米ではそれを政治的権力と結びつける動きが広がっています。みんなの前で誰かをいじめたりやっつけたりしてみせる行動が、物言わぬ多数派の支持を得るには都合がいいという訳でしょうか。
 私は生来気の小さい人間ですが、眉毛の形が悪いのか、黙っていると怒っているように見えてしまう顔つきをしています。記念撮影で精一杯ニコニコしたつもりでも、出来上がった写真ではブスッとしているようにしか見えません。おまけに滑舌がとびきり悪いので、愛想よく人に声を掛けたり話をしたりということも下手です。「和顔愛語」の実践にはだいぶハンディキャップがある訳ですが、しかしまだできることはある気がします。
 6月には岡山県腎協の総会があります。透析に関する偏見や締め付けにはそれなりの対応が必要ですが、憤りにかられるだけでは状況の好転は望めません。生まれつき怒っているような顔をにこやかで社交的なものに取り替えるのは難しいのですが、感謝の気持ちや謙虚さを示す言葉と共に、辛抱強く仕事を積み重ねていくところに自分の道は開けると思っています。

もみじ6月号 四方山話より