2018年6月

 「お父さんは?」「今日は遅いのよ、トウセキだから。」「ふーん。」私や妹が子供の頃、何度となく母と交わしたやりとりです。当時父は重井病院(今のしげい病院)で働いており、夜間透析の当直医にあたった日は帰宅が遅くなっていました。病院の医局まで、父の夕食を詰めた弁当を届ける母について行ったこともありました。1970年代の話で、透析を行っている病院は県内でもまだ少なかったようです。「トウセキ」とは帰りが遅くなる当番みたいなものか、と思っていた私が「透析」とは腎臓病の治療なのだと理解したのは4年生ぐらいになってからでした。
 私が亡くなった父の跡を継いで当院の院長になったとき、長男長女は2歳と0歳で次男次女はまだ生まれていませんでした。あれから十数年、透析を生業とする宿命か子供たちの運動会や学芸会は見に行けたことがありませんが、子供たちと夕食を食べ一緒に風呂に入るということは日常的にやってきました。休みは少ないが帰りがいつも遅い訳ではない、という仕事の環境のおかげでしょう。
 患者さんの命を支える透析ですが、透析施設の職員とその家族の生活もまた透析によって支えられて来ました。当院で働きながら出産、子育てをしてきた女性職員も大勢います。様々な立場の人達の関わり合い、支え合いの中で、透析という医療と、多くの人達の生活や人生が成り立ってきたと言えるでしょう。色々と辛い時はあるような気もしますが、辛い辛いとこぼすばかりでもなかったようです。
 私もまた透析によって育てられ、生きてきたとも言えるような人間です。ここ数ヶ月間でも患者さんと共に語り、学び、一緒に食事をしたりするようなことが何度かありましたが、これからもそのような機会は大切にしたいと考えています。立場を越え、手を携え共に生きていく姿勢があれば、色々な問題があったとしても何とかなるのではないか、そんな風に思います。

もみじ6月号 四方山話より