2017年3月

有難いという言葉は本来有り得ないことが起こって助かる、というような意味なのだそうですが、確かに振り返れば無数の有難いことが私の日常を支えてくれていることに思い当たります。いかにたくさんの素晴らしいことや感謝すべきことが日々の生活で起こっているか。そしてそれら有難いことをまるでぶち壊して回っているかのような至らない私の行いとの対比は一体何なのでしょう。
 「自分はあの人のためにこんなにも色々なことをしているのに、相手は何もしてくれない。」という悩みをよく耳にします。こういう一種の不公平感に苦しむ気持ちはよくわかります。実際に、相手からの行為や配慮を一方的に求めるばかりの人たちは透析医療のあちこちでも問題になっているようです。
 一方では自分に対して色々と親切にしてくれる人がいて、一方では様々な要求を際限なくもちかけて来る人がいる。ここで面白いなと思うのは、世の中は実によくできているということです。まるで親切や思いやりがくるくると持ち回りで世間を回っているような気がすることもあります。こちらを上から支配してくるかのような人たちの存在に苦しむことは誰にでもあり得るのですが、心優しく助けてくれる人に限りのない感謝の念を持つことも同時に可能だと思うのです。そしてそのすべての人が、例えば医療という一つの場のなかで何となくうまい具合に全体の調和を保っているとは言えないでしょうか。
 特定の相手とだけの貸し借りや損得の感情にこだわる意識から少し離れて、そういえば自分は結局恵まれているな、有難いな、という感覚を取り戻せたら気持ちもすっきりしてきます。何だか怖い雰囲気で迫ってくる人たちも穏やかに手を差し伸べてくれる人たちも、実はきっと同じように有難い存在なのでしょう。そんな意識が、取るに足らない私の働きや努力を数え上げるよりも力強く道を開いてくれるように思います。

もみじ月3号 四方山話より