2017年10月

「話し合いましょう。」とは日常的に使われる言葉であり、今日も世間では無数の話し合いが開かれていると思うのですが、その話し合いの結果に満足できた人は果たしてどれだけいるのでしょう。「対話か、圧力かという方針でアメリカと中国の主張が食い違っている」という報道をよく耳にする昨今ですが、対話の力に疑問を呈する意見もよく聞かれるようです。
 話し合おうと思っていた筈が、余計なことを随分喋ってしまって失敗したなあと後悔することが多くて実は少々困っております。対話という言葉には、言いたいことを言うよりもまず相手の話に耳を傾けようとする姿勢が感じられるのですが、これができそうでできません。つい言い訳やこちらの都合が口をついて出てしまい、これでは相手の人にも「話をしてよかったな」とは思ってもらえないでしょう。
 人を信じるとか誠意を示すなどということが真面目に語られることは、振り返ってみても多くはないようです。反対に、各々が何とか自分の都合を優先することばかりに気を取られているうちに全体の雰囲気が悪くなってしまうのは、よくある状況です。「人を信じても裏切られるばかりではありませんか」という考えも確かにありますが、ここで少々裏切られてもいいかなと思い直すと道が開けてくるようです。たとえ嘘をつかれても聞こえないふりをされても、淡々と穏やかに自分のやるべきことを続ける人に静かな力を感じることはないでしょうか。
 相手が語りだすのを待ち、人の行動が変わるのを待ち続けるのには時間と根気が必要です。しかし物事に根気強く時間をかけるのは、毎日の透析で鍛えた我々の得意とするところでしょう。腹をくくったうえで穏やかに待ち続ける覚悟を持てば、「話し合いましょう。」という対話の試みにもまた新しい力が生まれてくる気がします。

もみじ10月号 四方山話より