2015年9月

 8月はお盆、9月はお彼岸と、残暑の季節は亡くなった家族と何となく向き合う時期でもあります。田舎のお墓の前で手を合わせても聞こえてくるのは蝉や虫の音だけのようですが、今はもういないご主人やおじいちゃん、おばあちゃんたちが語りかけてくるようだと言われる人の気持ちもおぼろげながら分かるような気がします。
 世間ではフェイスブックというのが流行りで、こんな所へ行ってこんな人に会い、こんなものを食べたなどの個人的な情報が大量に流れているような印象があります。うちのクリニックで仕事をしているだけでも、患者さんや職員の家庭生活やプライベートに関する話がいくらでも耳に入って来ます。しかし人の深い内面で大きな位置を占めている事柄などは、安易には語られることなく奥の方に潜んでいるようにも思えます。
 現代医療ではCTやエコーなどの画像診断が長足の進歩を遂げていますが、聴診・触診という手段にはまた違った意味があるように感じます。私などが聴診器を当てたりお腹を触ったりしたぐらいで何が分かるんだと言われそうですが、そう捨てたものでもないのです。落ち着いて診察をしてみれば例え僅かではあっても何かが伝わり、何かが変わるのを感じることができます。
 今目の前にいる人、もうここにはいない人達、あるいはすぐ傍で起こっている出来事などが一体何をこちらに伝えようとしているのか。物事の表面に気を取られるあまりに、本当に大切な事を見逃してはいないのか。私には霊感の類いは全く備わっていませんし、墓参りにもご無沙汰しがちです。しかしどこからか語りかけられる何事かを体で感じ取る試みは、拙いながらもこれからまた毎日続いていくと思います。

もみじ9月号 四方山話より