2012年2月

昭和46年生まれの私は今年が大厄だそうです。厄年といえば以前私の恩師がお祓いを受ける話をしていたのを思い出すのですが、聞いた当座はそんなものかなと感じただけでした。私は元来神社で何かを祈願したり縁起を担いだりということはあまりしてきませんでしたが、それも年をとるにつれて少しずつ変わってきたようです。形も見えず言葉にもならない何かが、時折ずしっとのしかかってくるような感じを覚えるようになってきました。
 災厄やお祓いとは、祟りや呪いなどと関係が深いようにも思えます。科学の発達した21世紀でも、言葉や理性で説明しきれないものはいくらでもあります。人の感情や思いもまたそうでしょう。最近は絆や共感という言葉をよく耳にしますが、「現代は呪いの時代だ」と言っている人もいます。確かにインターネットなどでは人を貶める言葉をよく見かけ、現実の世間でも人の幸福を妬み、人の苦しみを笑うような言動に遭遇することがあります。こちらを気遣い祝福してくれる存在の有難さや、人を呪い恨むような情念の気味悪さは何だか分かるような気がします。
 仕事の能力や声の大きさ、腕力や権力などと比べて、祈りや願いの力には心のあり方が深く関わっているように思います。大切な人が病気になった時、何とか早く治ってほしいと神様に祈りたくなるのもごく自然な感情です。現実の矛盾や不条理にぶつかり自分の限界を感じることが増えるにつれて、何か言葉や論理を超えた大きな力の存在を考えるようになるのでしょうか。
 「苦しそう」「気の毒だ」「何か力になりたい」という他者への共感は、医療という営みの根底にあるものだと思います。また誰かを恨んだり呪詛したりするよりは、人の健康と幸せを祈っている方が自分のためにもなりそうです。いずれにしても人の情念や思いとは決して軽いものではありません。加持祈祷やおまじないは医学の知識や経験の代わりにはなりませんが、私も大厄のお祓いぐらいは受けておこうかと考えております。

もみじ2月号 四方山話より