2011年8月

 最近は色々な場面で絆(きずな)という言葉がよく聞かれるようになりました。人と人の強いつながりを表す、とてもいい言葉だと思います。夫婦の絆、固い絆で結ばれた関係、友情という絆、どれも素晴らしいものです。311日の震災以後改めて絆の大切さを感じたということでしょうか、結婚に踏み切る男女が増えているということです。少子化の昨今、これも喜ぶべきことではあります。
 震災直後には被災地の方々が無秩序な混乱に陥ることなく、真摯に苦しみを乗り越え復興を目指す姿が敬意をもって伝えられました。しかし月日が経つにつれて、美談だけではすまない厳しい現実も伝わってきています。晴れて結婚する人たちがいる陰で、被災地では離婚の件数も少なくないと聞きました。これは阪神淡路大震災の時も同様だったとのことで、大きな試練と人間の絆について深く考えさせられます。
 「聖人君子の役割を押しつけられるのは困ります。」医療の世界ではこんな主張を感じることがあります。人と人の絆を示すような献身的な行為が、臨床の現場で重要な役割を果たしてきたのは紛れもない事実でしょう。けれども絆の美しさが称えられる一方で、個人のぶつかり合いに苦しむのもまた我々の現実です。臓器移植の必要な家族のため自分の体を差し出す方は本当に立派ですが、もしそれができなくても誰も責めることはできません。その人にはその人の事情がある筈です。立派な献身を果たすのも人間、もう一歩を踏み出せないのもまた人間です。固い絆や自己犠牲の精神は尊ぶべきですが、そこに押しつけや強要が入り込むのは怖いような気もします。
 困ったとき助けになるのは、特定の関係や誰かの犠牲ばかりではないようです。様々な人との巡りあわせや助け合いも、時に我々の味方となってくれます。近所のスーパーでは、何となく馴染みになったレジの女性が子供達を気にかけてくれます。電車に傘を忘れて降りようとしている人に、声をかけて知らせてあげる男性がいました。こうした良き隣人との緩やかで自発的なつながりにも、忘れずに感謝していきたいと思います。

もみじ8月号 四方山話より