2011年3月

厳しかった冬も終わりの気配を迎えています。節分の時期はとっくに過ぎてしまいましたが、あの豆を食べるとき誰でも自分の年を意識するはめになります。年々増えていく豆の数、食べ切るのにも一苦労です。寒さも年々余計にこたえてきて、身体を暖める物にも色々頼るようになってきます。要するにもうあまり若くはないんだな、また年を取ったなあという事でしょうか。
 先日学生時代の友人が亡くなりまして、お別れの会に行って参りました。まだ若い奥さんを始め家族の方々にご挨拶しながら、理想や夢を語り合った友人との別れに自分の中でも何かが終わろうとしているような感覚を持ちました。最近は私と同年代の先生でも、家族を残して旅立ったという報せがもたらされることがあります。医師となって十数年ひたすら働き続ける毎日の生活の中では、若い頃感じていた迷いや不安は少しずつ薄らいでいくような気がします。代わって心の中では、確信と寛容さという少し矛盾するような意識が成長して来ました。
 残念なことですが医療の世界のあちらこちらで、もう限界という声が聞こえてくるようになりました。ほんの数年前までは理想の医療、もっと良い医療を追求していこうという高らかなかけ声が響いていたような気がするのですが、現実の力点はいかにして医療の崩壊を防ぐかという所に移りつつあるようです。長引く不景気や少子化を受けて無縁社会などという言葉も出てきましたが、医療だけでなく年金しかり、生活保護や雇用保険などの社会保障しかり、崩壊への危機感は社会全体の縮図なのかもしれません。
 しかし限界限界と悲鳴を上げるだけで、ただずるずると坂道を滑り落ちていくという訳にはいきません。お別れの会で紹介された友人の様子は、必ずしも悲愴な印象ばかりではありませんでした。行けるところまで進むだけ、やれるところまで闘うだけ。そんな言葉が気負いなしに自然と聞こえてくる気がします。年を取り遠く離れてもやはり友人とは得難く、有難いものだと思いました。

もみじ3月号 四方山話より