2009年7月

次第に暑くなり食べ物の傷みやすい時期になってきました。私は子供の頃少々神経質で、ちょっとでも怪しそうな食べ物はためつすがめつ検分したりくんくん臭いを嗅いだりと過剰に警戒するところがありました。そんな私を見て祖父母は「少々大丈夫、食べても死にやあせん」とよく笑っていたものです。戦争を生き延びた人たちの強さか、それとも元々そういう性格なのでしょうか。私の神経質な細かさはいまだ健在でして、仕事では薬剤や医療品の使用期限や在庫管理などを口うるさいほど周囲に言っています。しかし一個人としては床に落ちたものでも食べてしまうことがありますし、我が家の冷蔵庫や戸棚からは賞味期限が切れた食べ物でも数日前のおかずでもそう簡単には捨てられません。
 期限や産地の偽装、遺伝子組換え作物の使用など食べ物の安全に関わる事件やニュースは多く、また温暖化などの気候変動に伴って食糧危機の予想も耳にします。安全で安心な食べ物が毎日手に入る有難みは大切ですが、いくら表示を見ても本当に安全なのかどうかは分かりにくくなっています。取りあえずお腹を壊さなかったらいいかな、という感覚もあながち間違いとは言い切れません。
 食べ物に対する過剰な安全意識が、却って安定的な食糧確保を難しくしていると指摘する声もあります。「あんまりうるさいこと言うとったら、食べるもんなくなるよ」という訳でしょうか。また現在透析に使う機械では様々なセンサーや警報が発達しており、透析中の危険を未然に知らせてくれます。しかし機械に頼り切ってはならず、安全な透析のためには我々の目や耳、危機感といった生身の感覚も不可欠です。幸い我々はかつての祖父母のように空襲や食糧難の中を生き延びようとしているわけではないのですが、身の安全を確保するには人の言うことやどこかに書いてあることに従うだけでなくおのれの感覚を働かせることも大事だと思います。
 私に似たのかどうか、うちの子たちは美味しそうな匂いにも変な臭いにもくんくんと敏感です。あまり上品とは言えませんがこれも感覚を発達させる過程かと考えて様子を見ています。

もみじ7月号 四方山話より