2009年5月

裁判員という新しい制度がもうすぐ始まるのは皆さんお聞きだと思います。裁判というと我々の日常からは縁遠い印象ですが、国民であれば誰でも指名される可能性があり懲役何年といった量刑にまで参画せねばならぬというので、その責任はなかなか重大です。
 判決に裁判員による多数決の原理が導入されるということですが、自分の意見や判断にしっかりと責任を持つというのは簡単ではありません。自分一人で考えを述べることには不安があっても、自分が多数派に属することが分かると大手を振って声高に意見を主張できたりします。「数こそが正義である」という多数決の原理は選挙や議会での決議にはいいでしょうが、そんな原理が裁判に持ち込まれることに私は怖さを覚えます。盗人にも三分の理というと例えが悪いかも知れませんが、どんな人にもそれぞれの事情があり言い分があります。一方的な正論や正義を押しつけられることに、我慢のならない思いをした経験はないでしょうか。
 多数派による正義の怖さは、過去に様々な国が戦争へと突っ走っていった状況がよく示しています。不安や欲望が何百万人という人を誤った認識に走らせ得る実例を、二十世紀は残していなかったでしょうか。最近はインターネットでの書き込みの内容が暴走しがちであることがよく報道されます。事実を十分に確認せず、相手の言い分を聞くこともなく一方的に人を責め立て切り捨てるような表現がまかり通るインターネットの世界の怖さが、裁判の場に持ち込まれなければいいのですが。
 前院長は他の人とは違うことを敢えてするのが好きな人でした。そんなへそまがりの血は私にも流れています。実際に数の力に立ち向かう難しさは、責任を持って生きる人間一生の課題と言えるかもしれません。その場の雰囲気で事の理非や正邪を性急に決める前に、もう少し話し合おう、事実をよく確認しようと踏ん張る気力は、その場では疎まれるかもしれませんが結局はみんなを益する筈です。実際に裁判員を務めるかどうかは分かりませんが「みんなそう言っています」という表現に、ちょっと待てよと思える感覚を大切にしたいものです。

もみじ5月号 四方山話より