2008年9月

北京オリンピックの熱気もまだ記憶に新しいところですが、会期中は水泳や柔道の金メダルなどに日本中がわいたような雰囲気がありました。猛暑や物価上昇、景気の悪化など有難くない出来事ばかりが続く中、選手たちの活躍に拍手と喝采を送るのは我々の気持ちにも明るいものを与えてくれます。オリンピックが甲子園大会の開催時期とも重なっていたので、8月は残暑の中をスポーツ観戦で過ごした方も多かったようです。
 いつの頃からか、こうした国民的なお祭りの際に『感動』という表現がよく使われるようになりました。何かに感動できることは心豊かな毎日のために勿論良いことだと思います。しかしあまり連日スポーツの報道が続いて感動という言葉に何度も接すると、ちょっと待てよという感覚も起こってきます。スポーツは、自分ですることも観戦もしっかり奨励されていいと私も思いますし、自国や同郷の選手たちに声援を送るのも当然の心情でしょう。けれども応援への熱の入れ方や興味の程度にも個人差はあるものです。テレビだってせっかく今日も「水戸黄門」を見ようと思ったのにオリンピックで潰れてしまって面白くないわい、という人もいるかもしれません。
 あの真剣な若き選手たちの活躍を素直に応援しないとは何て人だろうと言われるでしょうか。しかし私は決して物事に感動できる暖かい感性を否定するのではなく、「いや私はそれほどでも・・・」とは言い出しにくい雰囲気が出てくるのを警戒しているだけです。今の若い人には「空気を読む」という表現がじわじわ浸透していますが、みんながそうだからと言う理由だけで少数派が押さえ込まれるような状況は気持ちのいいものではありません。「みんなが右を向いているときに、自分だけ左には向きにくい」というのは自由のない恐い世の中を想起させます。
 オリンピック開催国であった中国が、同時にチベットやウイグルなど少数民族の問題を抱えているのもまた事実です。熱気や充実感の中で少数派や周囲の人々への配慮も忘れない、大人の祭典とはそうあって欲しいと思いました。

もみじ9月号 四方山話より