2008年7月

先日の秋葉原通り魔事件は衝撃的なニュースでした。白昼の路上で突然傷つけられた方々、また家族を失った方々の苦しみは量り知れません。本当に悲しむべき出来事であり、犯人の行為が容易に償われることはないでしょう。しかしあの若い犯人の背景に共感し、自分も同じような事をするかもしれないと考える若者が大勢いるという報道も見過ごせません。携帯電話から明らかになった犯人の手記には、友人もなく仕事も不安定であるという孤独と不安や、満ち足りた生活を営む人々への恨みや呪いが繰り返しつづられていたそうです。荒みきった犯人の気持ちはどういうものだったのでしょう。相手は誰でもいい、という若者による無差別犯罪は岡山の駅でも起こりました。本当に私たちから遠く離れた話ではなく、いつ直面してもおかしくない問題です。
 対策として治安維持活動を強化せよという意見もありますが、私は事件発生の土壌がどうにも気になります。30年ほど前から若い人の間で、面倒な人間や事柄にはなるべく関わらない、その方が格好良くてストレスが少ない、という風潮が強まってきたようです。その若者たちが大人となり、経済の発展や携帯電話、パソコンの普及もその傾向に拍車をかけたのか、自分のつき合いやすい相手だけを選んでいても仕事や私生活は成り立つような錯覚が起きやすくなっています。その一方で人とのつながりや自分の居場所をなかなか見いだせない人も存在します。仲の良い人と共に和やかで安定した生活を享受する人たちがいる一方、孤独や不安の中でささくれだった心を抱えている人もいるという構図は若者にも大人にも共通のものです。
 話の合う仲間との結束も大切ですが、年齢や性別、社会的な立場を越えた人間としてのつながりに暖かみを感じることもないでしょうか。例えば簡単な挨拶や声かけ、笑顔を向ける、ということはどうでしょう。もともとあまり関係の良いわけでもない相手ならば、無愛想な感じの悪い反応が返ってくることも当然想像できます。相手の抱えている深い悩みや入り組んだ問題が、そう簡単に癒され解決される訳もありません。それでも、むしろそれだからこそ、こちらから一歩を踏み出せるか否かが問われるのでしょう。ちょっと声をかけ、話をしてみよう、という一歩が何かを変えるきっかけになればと思います。

 
もみじ7月号 四方山話より