2008年4月
 先日のお彼岸はかなり冷え込んだので、お墓参りに行かれた方々が口々に「寒かった〜」と言われておりました。私などは位牌に線香を上げて手を合わせておくだけですませてしまったのですが、仏前に手を合わせるということの意味を年ごとに考えるようになりました。最近はお遍路さんに出かけたり、お経を書き写す『写経』にとり組んだりする方が増えているようですし、学校や幼稚園ではキリスト教や仏教の精神を教育の柱に据えているところが少なくありません。お線香やお墓参りなど日々の生活の中に何かを信じ、敬うという行いがあることは暮らしに落ち着きを与えてくれるのでしょうか。
 医学の歴史をひもときますと、紀元前何百年という古代では医術と呪術、おまじないとは分かちがたく結びついていたことが分かります。もちろんそのころから、科学的な目でもって医学を発展させる行いが営々と受け継がれて現代に至っているのですが、「病は気から」という格言もしっかりと生き残っています。私たちは科学の力で追究できるものと、そうでないものとに挟まれて生活しているとも言えそうです。
 私は「罰が当たる」とか「祟りがある」というような言葉には縁遠く育っておりまして、テレビに出てくる超能力や予言といった不思議な現象には眉に唾する方です。データの蓄積や論理的な説得力を重視する現代医学のありかたを信頼していますし、何かをするときに縁起をかつぐこともあまりありません。けれども目には見えない何かを信じ、大切にするということが人から大きな力を引き出してくれることは十分あり得ると思います。今の子供はあまり外で遊ばないのでこう言うことも減りましたが、神社やお寺に悪さをするなとか、とにかくいい子にして手を合わせなさい、という教えには深い含蓄があります。
 全く同じ薬であっても偉い先生に処方して頂くとよく効く、ということがあるそうです。逆に私などは、「あんな医者に出された薬なんか飲んでいて大丈夫かなあ」と疑われることのないよう気をつけなくてはいけません。
もみじ4月号 四方山話より