2008年3月
 中国のギョウザや不二家に赤福ではありませんが、不祥事や監督不行届のかどで責任者が記者団の前で深々と頭を下げる光景はすっかりおなじみになりました。また事件や事故の被害者、その家族の方が相手側に対して厳しい言葉を向けるところもよく報道されます。不利益をこうむった人が片方にいて、謝罪する人がもう一方にいるという図式は人間社会がある限りなくなることはないのでしょうか。
 悪い結果を出した責任は厳しく追及されるべきだ、という考えに間違いはありません。過ちを反省し、改善して次につなげるということがなくては世の中の進歩は止まってしまうでしょう。しかし、企業や官庁で責任を負うべき人が退職や配置転換でどこへいったか曖昧になってしまったり、はたまた刑事責任での極刑廃止が検討されたりと、責任の取り方や償いのありようは混迷しているようです。何でも厳しく処罰すればいいというものでもなく、これはなかなか難しい問題です。
 ニュースになるような大事件はともかく、日常生活の中で私たちは小さな加害者になったり、ちょっとした被害者になったりという両方の立場を頻繁に経験します。「どうもすみませんでした」・・・「一体どういうことなんですか」などと様々なやりとりがお互いの間で繰り返され、その中で感情のトゲやささくれが一人一人の心の中に積もっていきます。100%いつも正しい人や、全身これ悪の権化という人などいるわけもなくそれぞれの人がそれぞれの立場と言い分を持って暮らしているのが実状だと思います。言葉や理屈の上で完璧を求めることはできますが、実際生身の人間にできることには限度というものがあります。ちょっとだけ、ほんの少しでもいいから相手をゆるすというのは甘すぎる考えなのでしょうか。お互いが限界のある人間だとすれば、誰かをゆるすことで自分も救われるということもあるように思います。
 あまりゆるして下さいと繰り返していると、おやまた杉本は何かやらかしたのか、と思われるかもしれません。確かに名医と言われるはほど遠く、いろいろと迷い、思い惑いながらの診療生活です。どこかで厳しいお裁きを受けることにはなりませんよう今後も精進して参ります。
もみじ3月号 四方山話より