2007年9月
 猛烈な暑さにみまわれた8月が終わりました。この8月という月を振り返ると、子供たちの夏休みやテレビの高校野球中継などと共に、原爆や終戦の記念日など戦争に関する報道がいつも思い出されます。そこでは戦争でなくなった方々や平和への思いを込めて多くの人々が祈りを捧げる光景がみられますが、大勢の人が一斉に何かを祈っている姿には言葉では言い表せない力を感じることがあります。
 困ったときの神頼みなどという言葉もありますが、せっぱ詰まった状況で神でも仏でもいいから何かに縋りたいという気持ちになることがあります。どうも私のように不信心な人間は困ったときばかりお祈りするようですが、特定の宗教から離れて考えても祈るという行為には深い意味と思いが込められています。
 あまりにも込み入った問題や一見解決不可能な課題を前にして、一体どこから手をつけてよいのやら途方に暮れてしまうときがあります。何をどうすれば解決への糸口が見えるのか分からない、こういうことは日常よく直面します。これをこうすればいいという具体的な行動へ移れないから、じゃあ諦めましょうということにすればいいのでしょうか。今すぐに解決は難しいけれども、時間をかければ何とかなるのではないか、こうしたありようと祈るという行為は案外近いような気がします。人事を尽くして天命を待つという言葉があります。戦争や核兵器をこの世からなくすことなんて、本当にできるのか。そのためには一体どうすればいいのか。様々な難病に新しい治療法が普及することはないのか。様々な事故や災害をなくしてしまうことはできないのか。祈ることと、諦め忘れてしまうこととの間には大きな違いがあるように思うのは私だけでしょうか。今すぐ具体的に何ができるというわけでなくとも、物事に対して関心を持ち、こうあってほしい、こうありたい、と強く願うことは実現への第一歩のような気がします。
 まだまだ残暑の厳しさが続きます。ありふれたご挨拶かもしれませんが、皆様のご健康とご多幸を心より、本当に心よりお祈り申し上げます。
もみじ9月号 四方山話より