2006年12月
 ついこの前までクーラーを入れていた気がするのに、早くも師走がやって参りました。何かと慌ただしい時期ですが、準備のよい方はもう年賀状の準備を考えておられることでしょう。パソコンの普及、発展に伴って、毎年様々な工夫を凝らしたきれいな年賀状がやりとりされるようになりました。どの賀状を見ても、新年のご挨拶はきちんとした活字で読みやすく印刷されています。でもやはりいちばんに目がいくのは、ペンで書き込まれた手書きの部分ですね。たとえ短い一文でも、相手の人となりが思い出されて嬉しいものです。しかし年賀状を出す方になると、一枚一枚に手で書き込むのはなかなか大変だな、という気もちょっとは顔を出してきます。
 同じ言葉を扱うにしても、書くということには話したり読んだりすることとはまた違った意味合いがあるように思います。特に手書きの文には書き手の人となりがよく反映されるといわれます。年賀状の一文が嬉しいのは、その筆跡や使っているペンの種類にまでその人の特徴が滲み出ているからではないでしょうか。それは逆に書く側に回ると、変なことは書けないなあ、下手な字もまずいなあ、というちょっとした緊張に変わるということを意味しています。
 年賀状よりもっと長いお手紙の場合でも、例えワープロなどで活字にしてあっても、書かれた文章には書き手の考えや思いが宿っています。文字は後々まで残りますから、話すときよりも慎重に言葉を選ぶようになります。誤字脱字も恥ずかしいものです。「書くということは人間に正確さを教える」と言った人がいましたが、ごもっともと頷くほかありません。私も「もみじ」のこの原稿を書くことで、偏ったり身勝手になったりしがちな自分の考えにも多少の筋道がたつような思いをすることがよくあります。学生の頃はノートを取ったり字を書いたりするのがどうも好きになれませんでしたが、最近は書くということの効用を見直しています。
 実は私は字が下手で、カルテの記載や処方が読めませんと職員に注意されることもしばしばです。医師のわかりにくい字は医療事故にもつながりかねませんから、まずは少しでも読みやすく書かなくてはと考えております。
もみじ12月号 四方山話より